2010年5月1日

国家信用論

経済界で世界貨幣の取引が唯一の交換尺度となる場合の危険は、国家制度の強化である。これを仮に信用取引の元締め順位制度と名付けてもいい。いわば最も安泰な経済適所であればその国家単位は、各地での信用ならない賭博者らの総元締めたる単独の位を宛がわれそうである。詳しくは、これらの必然な順位争いが国際的資本獲得への仕業の中身。だから国家そのものがカント的に揚棄されない間、国際的貨幣取引の定常な頻度順位が実態の地球支配力とほぼ近似する。Oikonomosや周辺支配の幅も、この原則と同じ文旨を指す。
 宗教原理主義の内、過激派の国連主義批判はそれ自体で賢い事だ。もし上記の地位に専ら絶望的なら別の手段に訴えるしかないし、つまり経済上位者の評判を落とすため、金銭づくの態度への超越を何らかの反抗的政治行動に秘めた道義で合理化したがる。
 世界精神か地球理性の立場でこの問題を反省すると、確かにその行動は高度に実践的で、又我々が寡占化した国家地位を何らかの道徳面での腐敗で覆っている状況を改善できる期待が持てる。但し、我々自身が随分と寛大で慈しみ深い国民性でいなければ、単純に言って、宗教原理主義者との無残な恐怖政治戦闘の泥沼へ踏み込む愚行は避けられない。唯の国際関係からいえば、信用創造の放棄か譲渡、つまりは国際銀行役の棚上げとして何らかの二国間以上との広域な連携で、主に己の貨幣銘柄を喜捨するべき時がある。この独占された信用への固執こそ、金融資本の偏りを正当化したがる現代版の愛想よい商業気質の裏の面へ隠された悪意であり、国柄の誇示という行方情けない自慢心のありかなのだ。けれどもこの様な見え透いた優越感がなくとも、真の国際人は貧者の一灯を心から尊敬できるかもしれないが。
 同じく、経済大国風の体面よさなどより遥かに、独自の文化の証である特有の宗教からの道徳義務を真摯に実践する国の民は、その存在意義では高い。もしこの個人がいなくなれば我々は身に余る金塊財宝とひきかえに人間性や、最低でも伝えられるべき精神を失ってしまう。そうなる仕業へ手を借した場合、単純に将来の世界での社交場で、魂を売った俗物の末孫という偏見を与えられるのを当然とも思わねばならない。そして資本に決定的偏りがある時点での思いやりのない目先の取引は、結局、国家を維持している間は、どの国民の一人にとっても割に合わない道理と思えるのではないか。我々にとって賢明なのは、和平に最も近い態度で、また利害損得とは全く違った観点から、宗教原理主義が抱えている重要な倫理観への学びの対話を深めていく手順だ。そしてその中途では確かに、信用取引による否応ない儲けという己共が得てきた僅かな分け前をもみな捨て去る必要がある。実際、聖者が云う様に財産権は博愛より尊いものではないのだから。