2006年7月20日

言語論

文学における目的美としての言葉と、哲学における思索の道具としてのそれとは、違う様相のもとにみいだされる同じ体系の組み換えなのだ、と知るべきだろう。
 もし異言語間の差異が強調されるべきならばそれは文学による。何故なら、文化的観念のちがいは表現の多彩を誘い、個性のために重要な演出装置となるから。ある言語の慣用の微妙を他の言語で充分にあらわせるだろうか。それが不可能なら不可能なだけ、文学同士には競戯と発展の余地がある。差異を無際限なまで微細に分接化していくなら、文章の意義は自体が固有価値を帯びる。
 だが哲学において概念の為に、異言語間の文化的ずれがあることは決定的な不都合ではないのだろうか。どうしてかと言えば、ここで言葉は道具であって、観念の到達と伝播を巧むために使用される様な合理的な体系であるべきだから。ならば人は、哲学用の言語を創案し、それを全人類に共通の規則で回転させればよいだけではないだろうか。そうすれば翻訳とか通訳とかにまつわる誤解の不条理は消滅するし、或いは、あらゆる言語構成の責任は、ただ個人の知的実践力だけに帰着しうるかもしれない。
 しかし、これは現実味がない。思索が文化を抜きにして不可能である由。我々はとりもなおさず、文化的理念に基づいて考える。
 言葉は文化を本質に持つ。それは文法・語順・用法・語彙などの語学的な違いである以上に、言葉のなかに有する思索の仕方にまで言語を取り巻く生活様式からの影響が多大であるからだ。しかし、哲学こそは言語における文化を手段に用いる。普遍性は異言語間のずれを許容するような次元にのみ、確定される。