2006年7月20日

言語論

哲学が言語の使用という手段に基づくものであることは現実で、又そこで試される観念の組み合わせからのみ、理想は図りうる。人類が今より遥かに知的に進化した未来、言語は今と元通りの構造を保っているだろうか。恐らくそうではない。言語は不変でなかったし、可変であるべく意志伝達の媒介として用いられる基礎にあるから。
 それにも関わらず幾人かの哲学者たちは言語の構造に哲学の問題解決の鍵をみつけようとする。もしかすれば言語使用のうちに確かならぬ事情が見受けられるに違いない。思索は曖昧のうえで踊らされた、不毛な観念の遊戯かもしれない。だが、それにもかかわらず、我々は考える本能、乃ち理性に宿命づけられているし、それは言語の用法を暫近的に改造し、communcationを改良せずにはおかない。いわば、哲学にとってことばは絶えざる変容のなかにある様な道具であるしかないだろう。たとえ口語であれ文語であれ、思索のために用いられることばたちは普遍的な観念を要求して改変されていく。
 我々が対立概念に見出すのはその試行ではある。男と女、白と黒、天と地、生と死、善と悪、真と偽、美と醜などの語彙は、普遍的な定義の為に利用されるべき根源に近い概念故。