2006年7月21日

哲学の構造

単に生物の多様性を促進する為に生き延びるべく使命づけられた個体が君の実存だ、と言わなければならない。その自由の限界は精神と呼ばれる脳の働き方に依存する。サルトルやハイデガーの論考はすべて、その様な生物構造に依存するものにとどまる。
 では、人々が文明生活を指向し、種内多岐性と生物の地球種を富ませるべく働くのも又、同様の原理に導かれたものにちがいない。もし人間という条件において高等な生と下等な生とが善における質的差として見い出されるとすれば、その基本的定義は活動の福祉性に求められなければならない。乃ち、理想の自己目的幸福を最上とした福祉的生は多少なりとも高等な知的活動であり、それ以下、快楽、さらに有用さの順に下等な利己的成果に留まる。
 だがもし理想に生きる個体を最上の善の結晶だと見なすならば、我々は一様な生へ向けて生物構造の本義に反することにはならないだろうか。知的多様性はそれ自体が人類における生存の別性とも謂われる。人類の猿類との最大な差異は知能の顕著な発達の事だ。ならば、順当な発展の順序はやはり、理知性の開発にあると言わなければならないだろう。それは善なる個体と以外とを選り分けるほどにもなり兼ねない仕業ではあるが、かつて、知恵の実として旧約聖書に考慮された如くもっとも、悪なる個体、獣的・非理性的な人物を徐々に除去するような仕組みに文明はある。哲学は知能における福祉性を養成することで種内秩序を最大多岐と寛容な突然変異可能性のもとに置こうとする体系。