人類の想定できる全てのしあわせの中で、「人類の全数から嘉されている」という予感ほど尊いものはない。Jesusは一部の民から憎まれたとはいえ、或いは仏陀や孔子は、我々の記憶の中でも人類史の最も輝かしい一幕として栄光に彩られており、我々の中にこの偉大な古人の姿が浮ぶにあたっても甚だしい僥倖感や畏れ、尊崇の念を呼び覚まさずにはおかない。
道徳を称揚した先賢たちは少なくともこの幸福、いわば聖性の中にある人類の貢献者となる事についての多くのありえる中道、そして極論としての当為を語った。神性が手に入った事など唯の一度もないので、少なからず嘗ては実在していたらしい聖たちの行蹟の数々から一応の
聖さ或いはholityを抽き出すしかないが、それによってさえ現代以降の人々が全く永遠性に親近できない訳ではない。