2011年12月12日

個性と全体性

文明の個人性は全く命題的。我々は全体性についてはよく勉学もし、議論もするがそこでの個人性、分かち得ないものについては殆ど無視しているか、ある社会化される時期を境にそれを忘れようとさえする。構造主義vs実存主義、合理主義vs浪漫主義の様なありきたりな定立だが、この二項に関しては自我や己が属した全ての側面が含まれていく。
 多くの戯曲や物語や小説は主人公という概念のもとに個人性への同一化を期そうとする。文明が宇宙で属した次元は果てしなく全体的で、そのすべてを詳細に把握するのはほぼ無理にひとしい。しかし、すべて生命が人をこえれば個性にのみ還元されるのが確か。
 個性を問う力はほか一切より強い事しばしば。反省力や内省は個性をより強固にし、外界から影響を受けにくくする。単に学習に関する限り人類は強い個性を手に入れる事はないだろう。それらは外界についての認知を増すが、ほか一切とはことなる何事かをつくりだす源ではない。遺伝子を含め、生命が担っている神話の作用、或いは永遠性と一体化しようとする活力はすべて個性に関わっている。この変異した情報量は宇宙の全体、世界の全てよりも希少か、時に特別だろう。この遺伝情報は肩代わりされえず、二度と復活もできない。個性はすべてその唯一個らしさ、代替不可能性、かけがえのなさについての絶対的権威であり崇高さや最高の理想についての出発点にして終点でもある。
 個性が十分に問われたのち、人類は世界の神秘についての最善の理由を手にするだろう。世界の甚大さに比べて個性が如何に小さく儚いかの訳も、同様に手に入れる。そしてこの生命力は他一切の事物より貴ばれるべきものであり、決して失われてはいけなく、更には地位と人種、立場や環境の一切をこえて宇宙の全体よりも重大な変異であると知るだろう。
永遠の個性はその構成素について神性に限りなく一致する。ヘーゲルの神格についての分析、つまり当為としての神が同時に人類の理性でもあるわけはこの総合された個性の表徴、或いは普遍的人生についての考察の程度、構築要件による。最大の共感はまた最高の個性に限りなく一致する。独我論に陥らず個性を追求するとは同時に世界についての絶対的認識と全くひとしい。全知が当為ならば少なくとも博識の底知れなさは当然であり、全能へは同じく万能があたる。こうして単なる本能からきた同種への保護や協調欲求から最も遠い場所にある博愛や慈悲は、程度としての限界化された神々しさへ漸近していける。精神は場合によっては神性とおぼわしき高潔な才質をつぎつぎ連鎖的に選択させる。この個性のみ、全体に比べて重要でも貴重でも、また合目的であるし、且つそれは実質的に量的だろう。理論、theoryという言葉が含んでいる多くの意味合いは最高の場合その進化の先に神と呼べる何者かを築くであろう。なぜなら、人生その他の生命が生後に獲得してきた多くの段階を短い間に一言そのほかの記号の羅列で理解させ、省略させるものこそ理論、その観照の記号的抽出だからだ。例えば戦争とか愛情とか和平とか時代といった言葉が如何に多くの意味と各事実の総合とを省略して伝えるだろうか。これらを知れば、実際にそれらの現実性を経験しなくとも、次元や知能によっては必要十分すぎる認知を得られる。現代が現代と認識できる人類はその時代意識をまったく同時代性に保つ或いは時代意識を絶えず同期し合う様に、本格的な世界の理解は自我にとって果てしなく抽象的であり、省略された少ない記号からの類推の集積でありえる。
 こうして、全体性にとっての個性の意義もまた一切の神話や神学の起源、或いは一切の学識や理念、理想、将来への見通し、過去の分析と温故とに由来していく。生命体はこの種の直観的躍動や知覚のひろがりによって行動をより効率へ向けて制御し、型にはまった行動をはぶき、他の単純な生態を利用して世界の神話的建築へ向けて如何なる技と自然の乗り物をものりこなしていけるであろう。