2011年12月25日

幸福の人類内条件

社会がよい物やよい場であった事などかつて一度もないか、単に思い込みによって幸せをえたにすぎない筈。
 之らの幸せ、つまり感覚的充足はどれであっても特定の思い込みの習性にすぎないのだろう。どの快苦も本能やその生育状況に伴う変形でしかないのを省みよ。何らかの感覚の勘違いや、その場での獣的興奮状態つまり単なる喜びを除けば、人類が完成された幸福、すなわち神からの無条件の永久の許しをえたことはただの一度もない。想定されえるありとあらゆる苦難が消え去った人類の一員は、単なる狂人でないとすればどこかに一人でもいただろうか。
 幸福を語った哲人はみな、それが唯のおもいこみだと悟らなかったらしい。もしくは幸福らしさをすぐに失われ行く思いつきか何事かの如くに軽くあつかって、後生へも真摯に恃まず成果を完熟もさせずに済ましてしまった。ミルやカントも、近世のデリダも実質の自己に有利な階級か地位保全のためにさえ最も安易な精神論、つまりアリストクラティックな自足を企んで学識経験に縁がない他の人類を冷たく突き放した。ブッダだけが、偽装や自己欺瞞、自らへのうそを見抜いた。彼は来ると期待する事でしかえられない超常現象的奇跡の世を預言もしなかった。神の国に於ける永遠の幸福感への希望とか、こういった夢見がちな空想といえそうな子供騙しをすてた。生存競争の悲惨を直視し、少なくとも往時しりえた最高の知見に基づいて人類の悲哀はこの世の構造や生まれた仕組みそのものにある、と教えた。この苦への理由付けは行なわなかった。それは熱帯の激しい不衛生や甚だしい過ごしづらさの中で、古代インド社会の必然で全く自然でしかなかったから。
 ギリシア語に於けるタナトスを、ブッダは素朴な理論で正当化した。この生という苦役の内にあって再生されざる事、つまり繁殖本能を抑え込む慣れに中庸な快楽をみいだそうとした。我々が禅の姿勢に持っているもの、武士や学者の中にあって求道心として抽出されていった姿勢はここに一つの震源を持つかもしれなさもある。神学ではない自己統御の原理は、もし見出そうとすれば現実的探究心とのみ云える。
 我々が修行という言葉で今日に引き連れているたましいは、同じくギリシア語にいうエロスとはことなる目的か、必ずしも一致しないとすればそれらの研究的自己統御つまり、理性あるがためだろう。いわば生の豊饒とか死への抑制とかは何れも両極端な限り、よくそれらの中間にある修養された個性の精神性に極まる。永遠の生に近づこうとした命なるものが死の可能性をもつ限り、それは神格に至りえない。だから未来が完全に予見できない間、この生は輪廻の構図を眺めつづける。完全に死滅しきる、とか完全に生成しきるという事は現実にはないだろう。永遠の命そのものとされた神の素は如何に多くの人々にとって歪んでいた事があったり、ばあいによっては打ちすてられてしまっていたりしてきたのだろうか。「貴方は神を信じますか」と問われて、心の底から、頭を冷やしてそれを信じきっている者は超越理念でしかありえない絶対唯一神以外を想い描いている場合は決して数多くまではないとはいいきれない筈。この徳義の程度や信心深さは単に、彼らのもっている精神性をはからねば外から窺い知るのも難しい。
 我々が人生の目的観を真剣に、その人類史の凄まじい悲惨や結局当為たるべき理想郷に向けて実現不能に漸近的であり続けているありえない戦乱や俄かに文明化したとも少しも思えない厳しい闘争状態のさなかで問い詰めれば、殆どの理性ある者は神の実在をもちだす以外で精神の安定を得るのは難しいのが現状だ。危機に際して本能から神頼みをする人の目は、決してそれを偶像には見ていないのである。崇高さ、という言葉で象徴化されそうになった神々しさとよばれてきたこの超越的宇宙現象の想像だにしがたい莫大かつ繊細な力への畏怖の念は、語りえない領域の不可視のしかし最も広く宗教人から認められてきた権威の名にその全知全能のたとえを援け、用いてきた。この理念は絶対に不可解そのものとして定義されているのでどんな特性へも化かせる。ここに過去の人類のなかで汎神論やアニミズム、時には多神教や偶像崇拝が起きてきた訳がある。
 神的計画論またはその独立した抽象化としての知的設計論は創造主の仮定を宗教学からもちこむ。もしある程度は人間的なまでに効力を抑えた人格神、つまり人型をもった神性というものの存在確率を偶像にすぎないとしてもこの仮説か信仰につけくわえれば、それらが完全に否定もしきれなくなるのだろう。この議論で混乱をもたらしているのは実際には寓話やたとえの、具体物に関してしかものごとを理解できない人々の脳の特徴にすぎない。手足をもっている神、ということ自体がすでに有形、つまりかたちを宇宙のなかに有しているので矛盾でしかない。自ら手先で創った世界に自らが属することなど寸法の差のために、仮に永遠の創作期間を見込んだとしてもありえないのだから。いいかえれば人型の生物は自らより小さな世界へのリクリエーションか、みずからを取り囲む物質現象へ影響をあたえられるだけだろう。世界に抱かれた個体が世界その物を創りあげられるはずがない。赤ん坊が母親自身を無から創らないのと同じである。
 幸福が単に習慣からきた特定感覚の充実でしかない、とすればなぜ星内外で営まれている異様な光景が展開しているかも分かる。それは群れが属した共通感覚に導かれて快苦を辿っている。賢者の気質は永遠に獣欲と共感をもちはしない様に、人類の中にさえ淘汰は社会ごと、社交界ごとに大幅に違う形質か姿を選択させる。だから往古の聖の進言、少なくとも預言者として信奉をあつめた程の名うての知能は理性的な態度をその指導集団に即した道徳目で教えたがった。乃ち、精神性の協会へより未来にとって望ましい社会秩序を与えたがった。
 どの生態適応からきた勘違いにせよ、仕合わせと不幸または不運とを決定的に別けるのはそれが人類の末裔である限り、類人猿時代のすさまじい同種内虐待あるいは暴力的絶対主義を避けようとする尊い本性によっている。弱肉強食が最悪の代名詞なのは人類の慈悲あるいはアガペーについてのみだろう。この適性のみが、他の種とことなる地位としての人類の補償としてしばらく働き続けていく。この環境の条件は、域内に人類への天敵がいない限り同種間または同類間での無用のむさぼりと滅ぼし合いを合理的に避けようとする善意をとぎたてる。そしてばあいによっては摂食関係や虐殺に関するたとえとしての彼らの闘争心をあおることになりがちな多くの無駄な生物虐待や殺生そのものを、説得または法規制で経済的に最小化させたがる。我々が生物への残虐な扱いののちに感じる恐れや謝罪の念はまさに、投影された自己が将来陥らぬともかぎらぬ生存競争内輪廻の地獄性をまざまざと見るからであり、その生態地位の順と草刈効果にまつわる伝統的統覚がみたされるとき感応はみずからと似た風の神性をもつ慈愛者を命乞い或いは舒明の意図を無論ふくめ上位に奉りたがっている。実際にそういう天国暮らしらしき夢想が束の間にしかありえない宇宙のつくりの冷酷さを知っていながらに、なお星内淘汰の発生論が彼らにそうさせているのはおかしくも、地球的に憐れでもある。