性選択による構造、つくりが大幅に違うときその生態条件の多様性も一様に違ってきた。
人類は豊饒さや多産の目安として異常で無益な乳房を持っている場合が多い。これらの機能性のない姿は多産性が有益か誉である社会淘汰を経てしか生じ得ない。同じく、学識の目安あるいは自己目的化された身体能力は殆ど有用性を持たない時にもしばしば雄性形質になる。異常な脚力とか腕力、それらに伴う心肺能力とかとある試験の成績が生存にとって必要でなくともそれらが属した集団に独自の闘争の色彩を与えている事がある。人類が過去から非常に高く見積もってきた雄性形質が器用さ、という見識は数えきれない無用の芸事或いは教養の前で強い説得力を持たせられる。
生態条件が、つまり少なくとも摂食かより大幅にはその上での競争に必要な条件が異なれば当然、世代間の交代が時系列で進む程異なり行く。文化形質あるいは文化型と人類学からよばれてきたものは結局、この生態条件差と言える。それは模倣か創発で一定の幅を持ちながら緩やかに集団間で異なっている。
日本の中で倭が定着した中古代の商業地、特に京阪神と呼ばれる関西の地域ではおそらく狭く閉じられた山がちの亜熱帯から温帯での過去の王朝形成による過剰な人員について過度の同質性のゆえ同種間闘争の必要が薄いかほぼなかったので、不倫或いは婚外に及ぶ異常な性行動と一連の不祥事の証を断続的にえり好みしている。旧約聖書の中でソドムという滅びた村に見られたのと類似の性格をこの一帯が持っているのはこの公家と呼ばれた中世の頽廃した生活に由来した文化型なのだろう。『源氏物語』にはこの性格者が虚構化はされているが、はっきり描写されている。しかし、この各子女への法的賠償責任を絶えず引き連れている多大な負債をもつ独特の社会性並びに一般道徳から見れば矛盾と堕落しか起こしていない有り得る制裁という面で将来予知に劣ったと言えるだろう行動形質への文化型、すなわち色情狂の姿は関東まで来ると殆どないか、かつてその地に大規模な行政府つまり江戸幕府をつくった家康によって導入されたのだろう関西からの人為的流入者達とその関西圏に定着していた現皇族や血縁者らに或る程度付随してはいるが、薄まった形にしかなくなる。そして関西から地政学的に離れれば離れるほど逆比例して丸で見当たらない。