2011年12月19日

カント三元論の超克

知性人の立場にある人の英雄的な努力、ある猛烈な前進というものは現世的に知られる事が殆どない。仮に一部にしられていたとしても多くの人の注目を浴びる場合はありえない。もしかれらが決定的に高く知性的であればある丈。
 この理から、知性が一般的な名声や標榜、現世的言説やそれによる議論からはなれた特徴で、しかもこの為に有徳で有益でもありえる、とわかる。偉大な精神が多くの同時代やその付近に名誉を得た試しはない。賢者なるものが有名になったり真に評判されたりするのは多くの場合遠く来世的、ともすれば、我々は神的な人々がどこにくらし何をなりわいとしているか十二分に知りえない。知りえた範囲の知性人は既に手元にあるのだから。
 カント以来の定義論としての「知性」「理性」「感性」の様な三元論は、おなじものの側面だろう。これらは一般的には神性、あるいは聖性、少なくともそれに近侍したがる精神性の生きているありかたでもあるのだろう。例えば科学的知見としての経験論や実証主義は理性の中に知性という新しい分野を開拓していった、と学問史のうえにはいわれ得る。だが、もともと過去の動物時代にもっていた本能は感性という発情から至った特徴の審美感覚を維持させた。集団の利害を見分ける理性はかれらの先祖といわれる姿にも弱いものながらみられる。「知性」が、単独の言葉としてもかなり後にうまれたものとこれらから再定義できるだろう。脳の部位としても、この為になんらかの事故や危機に際した動転で最も先にはたらきが失われ易いかもしれない。