2009年4月16日

社会学

凡庸な形質、或いは中途半端な形質はその生殖系統が無目的に乱された結果だと言える。育種のために自然や人為が行うのはなんらかの特徴をもった種について、その特徴にとって害のある遺伝形質を注意して取り除き、同時にその特徴を最も顕著に示す獲得および遺伝形質の個体か群を生存上より有利となる条件へ置くことでその一層の個性化を計る方法である。いいかえると育種の最善の方法は剪定と選良である。
 もしこの方法をまちがえれば全体として特徴をなくすか、又はなんの利点も持たない種が広がるだけの結末が待っている。倫理とのかけひきから評判の優れない社会生物学について、この学識系列へ自然淘汰の考えをそのままもちこむのが危ういという直観の根拠は、もしダーウィニズムがそこでも真なら人類間の競争的排除も遷移の規則で説明できてしまうからだ。つまり、個体間淘汰を当然と仮定すると我々は経済的共生の理想的な体系によってではなく、それを二分する勝利種と敗退種との絶えず分割されゆく関係へとヒト科を整理する思考がその基本的な経済遷移の規則として理に適うという結論が導かれる。人類社会に於いては特有の少数派の個性への虐め行動が定式化される傾向があり、それは一般に多数派からみて犯罪と呼ばれている。そしてこの犯罪感情が、或いは単に犯罪措定の法が彼らにとっては種の生育にとって剪定の役割を果たしているのが明らかである。当該個体群の不利になる変異を生態的に排除する、というのがその本質なのだろう。預言者は故郷では尊ばれない、とか郷原は徳の賊なりとかの先哲による幾つかの判断は、普通、極端に調整的または配分的であるような行動形は効き過ぎる薬の副作用のように別の不利さを集団生態へ与え兼ねないからなのだと意味づけられる。かつ、この極端な行動形はいわば社会のホルモン生成の作用と呼べるだろう。そしてその効き目が致命的とまでになる場合には当作用は集団全体の意志の名を借りて甘んじて排除される。たとえれば過剰な性ホルモン分泌が免疫力を解除してしまう為にその生態がみずから病気を患う前に、過度の勇敢さとか柔和さは無謀とか卑屈とかの過剰な性質となって自らの意図する偏った行動を性別的な見地から自己阻害し、性淘汰は審美的に優良な個体、すなわち極度に中庸な個体へのみ働くのであるから、その異常な個体を少なくとも実際の自滅からは救うのである。社会においてはこれが異常な極端すぎる形質として犯罪なる名義の発生する理屈である。
 逆に、同社会一般に褒賞の法が暗に明に定められる場合がある。こちらは生態への快楽物質分泌のように、その有利な成長を奨励する作用にたとえられるだろう。勿論いうまでもなくそこにも抑制はある。脳内麻薬中毒者が危険なのは過度の趣味人や奇人変人への一定の偏見がそれらの熱狂を規制するために急進または退行が尋常の中継的変異よりも進化にとって相対的に有利ではないのと同じであって、通常そのような超急激な突然変異へは保存が働かない。というのも適切な受け皿がないためにこの単独では素晴らしい遺伝子配列はつづく世代のより平凡な種類に混ぜ入れられ、その奇跡的天才は多少あれ崩されてしまうことだろう。尤も人類は遺伝子バンクなどの外部媒体手段でしばしばこの自然のままの遷移規則を時に破格もできることになるらしい。
 社会の安心へ最大の徳目とされることが多かった信賞必罰の原則は亦この両作用、犯罪と褒賞の正しい運用の道理なのだと考えるのが妥当だろう。すると、前例がないか、もしくは前例を大幅に超えた極端な変異をその社会集団が一体、歓迎するかどうかは、結局はその集団が将来へ向けて如何に習性を変異させていくかのその時点で、最も信頼に足る指標だと結論していいことになるだろう。もしこの集団が銀河団の運動法則の発見を一笑に付し代わりにそれをなした個性を牢獄か精神病院送りにしたならば、そうせず寧ろ慎重な学会議決のすえ爵位で厚遇した集団に較べれば当たり前だが、将来像はまったく異質な姿になると予見できる。前者はおよそ堕落した無知きわまる賊党の増長とさらなる跋扈によって荒廃した生態が最も好適な種である茨の地となるしかなく、後者は最も選れた知性の成長がますます促進される限り古今の学識の殿堂のうちいやましに最高潮が見られる寛大の宝庫となる確率が相対的に高い。これらの演繹がもし幾つかの実証の過程から真実味のある社会への知識であると認められる時が来れば、我々は同時に、他の進化した種類たちに従って、人類自身での抜本的な種的分化を予見することになるだろう。そしてつねなる目的に向けた剪定と選良すなわち血統の育種によってより良く利益を享受するのが、地球の自然がつくりあげた審美的な恩寵へ、種の改良へ無理に逆らわない有り様として正統なのだと認識することになるだろう。幾つかの社会国家では血統主義というかなり保守的だと一般に考えられがちな道理が国民の永住権へ賦与されている現象が観察できるが、古くからの世界宗教というよりは、あらゆる繁栄した種を容易に一掃できる真実に畏るべき自然淘汰の観点からこれをみるとするならば、その政権が永続を望むかぎり結局なにより賢明なことなのだろう。
 まったく次元の異なるくらいその種集団にとり極度に有用な変異が出現する確率は、客観的に分析すればその生殖系統が一定の環境変異の中で最大の効率を達したという事実でしかないのである。逆に、極度の稔りなさ・醜さ窮まりない奇形・あくどいほどの無用な構造がもし生得的に生じるとすれば、それはその種の両親の生殖系統が完全に無目的な、つまり望ましい理由がなく、一定の系統立った合理性のない乱暴の影響を受けた結果なのである。なるほど極悪の犯罪的人格がしばしばこのような聞き知るも身の毛のよだつ極度に不幸な生い立ちを背負っているのもかならずや偶然ではないのだろう。この種の環境変異が密度効果などによって固定化するとそこに相変異の規則がみとめられることだろう。ある国柄というものもかなりの程度は必然の地政学的法則に基づくはずである。
 生態的有用性への変異の効率という社会の共通文化或いは社会資本のかなり耐久性のある蓄積の観点を考え直すと、専らの課題に対する経済性が集める汎用さよりは未然の事態へ備える学術や政治に関する際だった特長が、それを群ではなく個体の変異へ当て填めれば既視感のあるありきたりさではなく未視の特別なめずらしさが、種の繁栄のためにはおそらくより有益な、優先する価値ある選好の順序なのだと思わせるのだ。というのも、哺乳類によって魅力自体のための性特徴はおよそ雄間競争の合間でなんとか図られるに過ぎないのだから、このために役立つ特質は続く世代での競争的社会淘汰に打ち勝った場合にのみやっと遺伝されうるものだろうから。さらに、このことは中庸律という論理規則を右でも左でもない的中を必ずしも迷惑でも道楽でもない範囲で追求する個性に関して適用するかぎり、つまりいわゆる個人の幸福の追求に関して、決して犯罪および褒賞の過剰という極端すぎる変異への抑圧の原則と矛盾しないのである。それはどうしてしばし偉人が生じるかを十分に説明する数理的な規則である。
 もしaを犯罪的傾向の変異、bを褒賞的傾向のそれ、cをそのどちらでもない幸福追求の傾向のそれとする。なお以下では略称としてそれぞれaを犯罪、bを褒賞、cを幸福とおきかえて記述する。
¬a∧¬b → c
∵c → ¬[a∨b] これが証明されるべきことであった。
以下は反証。
もし 
c → ¬a∨¬b
であれば cならば aである か bである かのどちらかが成り立つだろう。
ここで、
[a→c]∨[a→b] …①
とすると、犯罪は幸福である か 犯罪は褒賞である のどちらかが成立する。ところで
c → ¬a の場合はその幸福が犯罪でないのが自明であり、常識的に矛盾する。反例、戦友の絆。一方、
c → ¬b の場合はその幸福が褒賞でないのが自明であり、常識的に矛盾する。凡例、受賞級の発見。もし①のaをbにおきかえて
[b→c]∨[b→a]
としても、論理式として等しいので結果も同様である。すなわち 褒賞は幸福である か 褒賞は犯罪である は 幸福が犯罪でない と 幸福が褒賞でない が常識的に矛盾する以上どちらも論理として破綻する。反例、兵器開発の栄誉、皆勤賞。
 こうして幸福cは犯罪aや褒賞bによって定義されてはこれなかったので、はじめの式
c → ¬a∨¬b
はそれ以下に記述した四種の論理式のどれもが偽なかぎり自明ではない。
 よって犯罪でもなければ褒賞でもないものが幸福であり、なぜならば幸福は犯罪または褒賞ではないからだろう。これには反例が見つけられない。以上。
 もし上述の道理が理解できれば、なぜ人類に限っては雄よりも雌に、つまり女性の方へつよく審美性が要求され易いか、という通常の動物の種内競争とは異なった現象が殆どの部族(か文明化されたと称する民族でさえ)で広く文化の傾向へ観察できるかも自明の理となる。それは生殖系統の合目的性を社会淘汰の起きる頻度に際して守り抜くためなのである。これゆえに雄性形質たる男らしさが人類にあってはどうしてすぐれた理性かすぐれた知性へと集中する傾向があるのかも至極、その種の血統を保存する本能の立場にとってすれば、当然の選り好み方なのである。ここに限って専門家以外へのある程度の納得のために道徳観からみて卑俗な例示をも辞さないとすれば、よほど安心できるかよほど信用にたるかが、ほどほどに魅惑的である雄よりも人類にとっては遺伝のよしあしについての手堅い選好なのだとも説明できるだろう。だが極度に魅惑的な場合については、その特殊な雌体の形質が雄性の特徴をかなりの程度、獲得形質を含む顕性の範囲で兼ね備えるかぎりで、この原則をしばしば、又は多かれ少なかれはみ出すかもしれない。ともあれ人類の自然科学という原生人類が考えられ得るかぎり聡明な営みの情け容赦ない法則知が教えるところによれば、決してこの例外が多数派を占めることはない。さもなければこの集団そのものが他の隣接する種集団との断続的な闘争に際し、形質の特性が不安定または極度に一様になっていた結果、敗退するか押しのけられるか、よりその弱小が明らかの場合はなんらかの奴隷化によって支配されたか、最悪のときに滅亡させられた筈である。しかし、我々は常に勝利した集団がより広域に拡散するという適応放散の理屈を忘れない限りは、タカ派の戦略を、則ち知性の戦略を防御的なハト派的理性のそれよりも普段の行動にとっては、信用に足る導きの糸なのを疑えない。おそらく、理性とは戦時訓練にたとえられる群的編成にとってのそれであって、決して平和時点での最適化した行動規則ではない。勇敢なドイツ兵が誤ったプロシアの砲撃に際して土のうの上に颯爽と仁王立ちとなり、偏在する同僚のイギリス兵へ大声で謝罪の意を述べた説話とはそれがもし平時の企業内で起こった呉越同舟の倒逆なのなら単なる失笑物だったろう。すると、順当に事実を収集する習慣をあまり否定しない知識欲旺盛な個人の緻密な思想の結晶中では、あるいはその我らが惑星へ順応した頭脳が独り構想する理想的なイデア界にとってするなら、王侯貴族が種にとって有益なのは普段の窮屈な序列のためではなく、戦乱時点での迅速な協力行動の準備のためにかも知れない。攻撃行動による失点が大きいほど争いの高いリスクはそれを儀式化する傾向をもち、当個体群の行動型を紳士的に、より大人しくさせるという社会生物学からの法則を軽視すべきではない。軍備の寡占による政治的順位制は同等の利点をもつと定義できる筈である。無論ながら我が日本国にはその種の空想を事実と誤認するまで疎かな学究の徒か党派はかなしむべきまでの歴史認識の充足のゆえにそれを科学としてではなく正に詩想にしか活かすまいが。回想へ事実を返したのを素朴な返し歌と取れたのは東国造とされたおきなの巧妙なおべっかつかいなどではなく、先入観のない素直な物の見方でしかない。どうしてその知識の奏でる歌合わせを神遊びも矍鑠たる余裕もなくして、毫も責められたものだろうか。素朴な自然人の心情が都会慣れた芸術屋の放恣よりも真実に詩的である以上、科学する者は高等な文明ぶった擬態をよりずっと、懇切丁寧な自然の説明を職能として誇るべきだろう。
 かりそめにも戦争と平和を越えて有利不利の差は、もしその系統が経済的性徴という女性からの程ほどの選好によって十全から帯患までのありうる健康体として保存されゆくならば必然に開き続け、なんらかの“揺り戻し”がしばしば種の棲息環境を侵さないかぎりは決して元通りにはならないこと、いわゆる自然淘汰による新種の形成過程という社会的生態の必然を忘れるべきではない。もし人類が殲滅戦争をあまねく最大の功利であると認める極道の徒たるを望まない、かなり大人しいかもしくは天敵から免れたほぼ属として同様の種類であると仮定すれば、次第に文明化が進んだ同一惑星の中では理性的な適所としての原理主義宗教の停滞地域よりは、次々有利な突然変異を蓄積し続けられる知性にとっての棲息域が、普段からより多大な供給を受け易い平和時の同盟集団のほぼ決定的な勝ち越しによって、いいかえれば暴力を辞さない群れたやくざ集団ではなく独立した平民の寛容な胴元にはどんどんと増大するのを暗黙のうち観察できることになるだろう。
 生態の進化そのものとは無関係に、社会淘汰の法則は必然に、より知性の高い集団へ微笑むだろう。