2009年4月15日

国際協調の監督的見地

我々がアイデアと言うとき知らずしらずにプラトンの恩恵を受けている様に、ある種の対象を持つ概念をそれ自体を指す理念にまで昇華するのは知識系統に対する、哲学的な批判の基礎付けに待つ。もし観念というものを定義するなら、それは感性に待つだろう。すべての認識は観念から概念へ、概念から理念に至り、再びあらたな観念の生産へと還元されるように見える。それら個々の働きは分けて独立すべきものだとして、より高次の認識はそれらの巧妙な循環または輪作にあるらしく思える。分業と協業の作用はこの循環的輪作のためにそれぞれ適宜らしい。文化と呼べる働きがあるとしたらこのリズミカルな再生の活動に目標を置くべきと思える。理知と感情とが相互を敵視するのではなしに、互恵する適度な距離を保つべきは循環的輪作をよく為し能う農耕の道理に近い。
 もしそのような豊富の骨が掴めるとすれば国民の性格もまた、再生の律動へ適応すべきだろう。限りない階級分化も、限りない平等調整もこの面からすると最高の格率ではないだろう。多くの階級制度には層間変位をうまくする抜け道、あるいは遊び幅が設けられるのが通常だが、社会の順位制において固定せずとも過剰な流動性をふせぐ対策には例外の余地は絶対に欠かせないものらしい。
 よりよく調和した社会には体制の塑性がより一層必要だろう。地域間の協調もそれが互いへの牽制を兼ねてこそ、結果、偶然に左右されにくい堅固なバッテリーを組むことになる。他国を無視すべからずという憲法の理念は傲慢をでも自虐をでもなく、より強化された協調の場を世界へ要請する指導力を当然視するところに成り立つ。よって原理主義そのものさえ決して粗野な見た目より悪の道理ではないだろう。