2009年4月15日

哲学と文の学の関連

後自然学が自然学の後から進もうとするのはそれが最も総合的な学識であると示すに留まる。知恵を好む事は決して後発的ではない。シェリングの意見に、哲学するとは学究自体のことであるから哲学部の存在を問う必要がないとある。但し、哲学という訳出語は惟神への道を哲ること、より恒久しき精神を有することにある。
 現存の哲学部の存在はこれらを慎重に鑑みると、自然学の最終的形態としての社会学をも含めた批判を行う為に他の学野とは独立して、総合の学野として設えられるべきなのだと思える。それは既存の研究領域を拡大する事を専門化し、蛸壷と化した科学者とは異なる観点から、認識を容認か否定する為につねなる独立した論理作用を学識の外へ置いておく為に。一般教養のためには哲学部が最適な本質となる。文学と呼ばれるものは、芸術に関する趣味批判を特徴づけるとしても必ずしも最善の総合的学問体制ではない。それは実践的学究の為の文の学ではなくて、文芸の準備という技術面からの命題が忍び込むからだろう。
 言葉と学識の分岐が十分なしうる訳ではない。文章と学問が不即不離であるのは伝承に関する筆記の可塑から生じる事態だと考えられる。記号の論理がそれ自体を指すということ、文の事実がまなばれたことを一定の伝承形態へ託す。
 哲学に流行があるという事象が示すのは、代の考え方が最も総合的な知性を道徳と見做す所から。