2009年4月30日

政策綱領

われおもわくば、“天下りという一方通行”が官尊民卑の陋習と相俟って或る種の弊害――愚民政策を自慢するという民主主義にあるまじき中華趣味的態度表明――をともなっているのが、儒学の国教化のくびきを背負い込んだ日本政府の一大欠陥だと。

なるほど階級制のつよいイギリスの場合に散見されるように、専門官僚が非常に緻密な細部の知識をともなって中央管理を容易にするということも、ないわけではない。中国の急激な経済発展には果断な統制がよい面を示しているらしい節もある。

 問題は、日本人の大衆一般が政治に無知であるということ、さらには儒教的愚民観が後を引いて、あしきことにはその奇妙な無関心に馴れてしまっているということではないだろうか。
 ちょうど異常に高圧的な親のもとで育った息子が反抗期には無目的の非行に走りやすいのを悟るのなら、国民を見下ろし日々おろかにするのではなしに、たとえ少しずつでも啓発していく政策案が族議員のはびこる現状の国会でもそろそろ、真剣に考えられるべきではないか。

この点で参考に足るのはジェファソンの挑戦の後を継いでジャクソン大統領が行った官僚制脱構築の工夫で、和風に云うと、少なくとも内閣官房以上にはみずからの信頼する民間人を抜擢するという習慣づけであった。
――日本の国政の実態は、衆目が一致するところ官僚制度の最たるものでいつもの‘大蔵族’ののけ反り加減といい、首相は選挙に気を取られがちなその勉強時間の不足もあいまって殆ど、強権をうばわれがちであった。また、アメリカのようなテレビ劇場は世論をわがままに扇動する衆愚政への兆しが感じられないではない。

ここから、飽くまでも奇襲なのでつねにうまくいくとは限らないが、『民上(たみのぼ)り』というまったく目新しい方途を用いて、並み居る高級官僚の出鼻をくじく伊達な天才が一度は出現してもいいのではないかと思われる。
――指先の一任でクビをすげ替えるという抜擢人事の効果は、お雇い外国人をつかった大企業経営の場合にあるように、情実人事の馴れ合いを破壊する威力がある。日本的な和の精神にとっては神経を逆なでするが如き強権発動の実証だからだ。

(このアイデアには二つの徳がある。
第一に民をのぼらすという日本史に類例のない奇襲は千尋の谷底へクビにした高級官僚を突き落とすライオン式教育の側面によって、在野へ政治知識を逆説的に普及させるということだ。
第二に、これを多少の反抗勢力をかえりみず幾度かくりかえせば、省庁へは内閣総理大臣の実権への畏怖が染み渡ると同時に、民間人のなかでは青雲の志が沸き立ち、普段の公共国家への奉仕が活気づく筈である。
もしそのヘッドハントが単なる人気取りだけの芸能タレント向けでなく、ある程度より若々しくてごく賢い政策通へのものであったのなら、結果的には確実なマスコミ騒動により容易に政治的関心度を啓蒙する役に立つだろう。)

(害があるとすれば、地方政治では既に現実となりつつあるように、下手な人事で大衆の人気にこびる行政的実力が何等ない扇動政治化、テレビタレント化の腐敗をすすめてしまう危険。もう一方ではあまりに急激なリストラで官僚へ過剰な心理的不安をあたえ、官庁内部で無駄な競争意識や仲間割れを起こさせてしまう潜在的可能性だろう。
この欠点については、西郷隆盛の訓戒にあるように「功労には賞を、見識には位を与えよ」という人事哲学がよき批判を加えてくれるだろう。つまり、たまたま功名をたてただけの燕雀を鴻鵠へ仕立てるのはまず無理というべきだ。それはいくら果敢であっても、ジャンヌダルクにはルイ14世の帝王学がまなばれる環境条件がなかったからである。)