2009年4月17日

自然法則の知的淘汰論

優勝劣敗の規則にとって、その最も合理的な慣則は取るに足らない構造をより精確に切り捨てていく淘汰の方式が本質を形成するのだと言える。ジャンクDNAの内、偶々その変異が環境にとって適合度の高い特質が当て嵌まれば、当然その慣習的基礎は続く世代の間では徐々に系統的発生の遺伝形質へと絶えず蓄積されゆく選好度の増大に於いて獲得的であることをやめただろう。要するに生存闘争の最たる合理性はそれが変異の限りない散乱をある優秀さに目的づけて淘汰できることにある。進化論あるいはダーウィニズムへの批判の殆どは創造説が種の変化を容認しないために、その自然の創造的序列の最高段階へ人類を置いた、という古くからの万物の霊長仮説を信仰の前提とする思想体系からのそれであった。だが我々を含む宇宙に対する理解にとって最も規範に足る自然認識の数学的基礎によれば、天文学は単なる確率概念の範囲で地球外生命体の可能性を予言できる。ドレイクの方程式を存在確率ゼロ以下にする論理的根拠は自明ではない。それも地球の置かれた惑星環境が決して唯一的でも必然的でさえなく、ある化学的な組成の配合によって生じる有機的特徴に過ぎないと、簡単なエントロピー増大則そのものが確約するからだろう。なぜならもし地球と極めて近似した惑星場を宇宙間のほぼ同等な周縁域へ仮定すると、そこへ漸次的進化の奥行きに従って次第に複合された細胞としての知的生命体を予想するのが順当となる。脳という部位はどの文明場に於いても次第に増大する傾向を持つ。それは観測できる限り地球物理的な宇宙系では絶えず熱的エントロピーが増大することから、その生物が外部へ放出できる情報量をこの慣習的基礎へ適応させればさせるほど、世代間で起こる資源価値の高い場所の寡占競争に際してその複雑な行動基準は比較して優位を勝ち取る。
 仮に脳ができるかぎり多くの獲得形質的情報を記録するための生態装置だと仮設すると、その容量の生得的増大の傾向はつねに最大の学習を保証する十分な構造だと考えるのが妥当である。自然は長い集団的闘争の中で人類の祖先達へ最も初源となる文化として共通神というまねを恒久的に指定した。この理念は脳の学習可塑性という構造にとっては結束の単位を保障させる役目を果たすことになった。言葉がおそらく共通神というまねごとの一番基本的な形となっただろう。この言葉という道具は遺伝的な仕方によらず集団の血縁間を緩やかにつなぐ為の最たる外部媒体であったからだ。
 唯一神の信仰は、だから、人類の古代文化が備えた最大の結束の方便としてかなり妥当性を持つものだった。幾らかの飛び抜けて先験的な天才人がはじめてその考えを持ち出した時の周囲の人種の驚きは、未だにその際の言行録を聖書と呼ぶ慣習が生き残っているので信憑性がそれなりにある。言葉でしかなかった筈のまねはその方が人類という脳の増大した群生の基礎条件を呈しだす。結果、この唯一神への結束の固さを試す為の殲滅戦争が行われるだろう、たとえ経済共生的吸収合併も含むだろうとも。そしてもっと遠い未来にであっても、最も慣習的に強力なまねを可能にした集団が至るところで勝利を占め、種の形質の更なる増大を実現するだろう。この真実の法則は、自然界がより空間としての情報容積を増大させて、そこで起こる物理現象を、生物という斥力形態を含む時間軸に沿って多彩にしていこうとする傾向を普通に持っていることと経験的に一致するのである。
 もし人類の中で、まねのよくない種、つまり外部的に伝達されゆく言葉のミーム容量の低い生態的に単純な文化質のそれをまねのうまい種よりも優先させる場所があるとすれば、当然ながらそこで観られることとなる変異の幅も同様の慣習に従うだろう。唯一神のまねが創造説の抜粋としての知的設計論を余儀なくすることは、この集団の知性が当文化の系列を言葉以前に求める聖書原理主義を正当な道徳観として保存してきたというより他の社会的意義を持たないのである。
 我々は、以前にも増して延長された青年期一般を準備する文明化の学習能容量の増大そのものが、いずれこの系列の遺伝形質を単なる脳容積の相対的に高い種へ有利となるほど複合した行動秩序を要請する場所のもつまねし難さに於いて、典型的な獲得行動の一種とのみ見なせるだけ知性の変異とその種類を繁雑にしていくことが淘汰の法則にとっての合理であると考えなければならない。その認識が、即ち言葉のまねがたさが敷衍するほど、当行動形式はDNAの複製という生殖の論理にとって成功する区域を広げるだろう。