2009年4月3日

論理的双方向性の洋学史的經緯

学問の営みの上で二方向の論理が正当化されるのは本質的なこと。不完全性定理は学問の上では合理的な真理かもしれない。数理と倫理とが相互に違う論理法則をもつのは相互の誤謬を監視する為の必要条件であり、随って物理にとって自家撞着でさえなかった。より単一化されうる規則へと物事の認識を還元する作為はより総括的で複合された大きな理念へと止揚するそれとは異なる推論路程を辿り、故にどちらも訳なきことではなくなる。自然法則の前での足踏みを現代人が信仰箇条とする理由も又この論理的双方向性という学問の基本規則の上にある。
 だから、もっと素朴な考え方で充ち足りていた祖先がなぜ造物主の仮定を理念と取り違えたかまともに問う工夫に進まなかった如く、現代人が工学の恵みに浴してなぜ物理が法則的かを問う猶予をえられないとしても殊更かれらの怠慢でなければ哲学の不足に終わる。
 宇宙の数理秩序視観をピタゴラスが始めたとするなら、その倫理秩序視観はカントの創始に求まるだろう。いずれにせよ物理学はすべてに法則性を求めて止まない。
 ニュートンの哲学は森羅万象へ物理法則という神ながらの計画をあてはめようとする試みの上であった。そして物理秩序視観は論理的双方向性の結果にとっては最も高度の概念を比例のたとえを用いて文法づけようと試みる絶好の適所だと云える。それは真の文学にとっては教科書的中心領域を司る。もし最高度の比例概念が知られる様になれば我々が自然法則を信仰する為の合理的必然性または客観的態度は学問それ自体の秩序の中で論証されるだろう。法則性が単なる論理規則の一種として厳密に定義される時も同じ経路上で果たされるだろう。