2009年3月30日

社会学

適応価値の性特徴的側面は経済性自体とも多少あれ異質である。我々は経済生活に於て希な適性をもつ彼らを暫し見かけるし、逆に経済的でも性徴に欠陥をもつ或いは反性差的な個性を権利の上で認証する場合がある。仮にこれらを簡単な人間性という指標で認知すると、凡そ類人猿と違いのない形質から最も神格的な彼ら迄は高い経済性へ達するという内容での達成度に加えて、その達成形式に関する偏差を異なる姿で取る。
 人種概念が何らかの遺伝に対する分類を許すなら、その最も特徴的な変異の幅が顕れた形質について、則ち二次性徴の雄性形質に関する目立った偏差に関して真と認められる。もしこの概念の獲得が知識にとって有益ならば社会形成に於る、文化型分析の指標の一つに用る可塑性認識の道具に、だろう。群的行動型の中庸の極として企業活動が社会生物に経済概念(建築術の形式)を該当させる原理(いわば群生の原理、とでも云われる)に相違なくば、必然に或る適所の環境変異誘因は最も目覚ましく合目的化された形質を獲得形から遺伝形に至る連続した世代間の選好的集積により適応価値化し、結晶させるであろう。幾つかの誇示や雑種間競争の手段となる形質への学習的模倣は変異の尋常ならぬ個性を教育し、目的に適った行動型へと習性を漸次変形させ、擬態の演技を物してこの系の総合的複雑さを増す役に立つ。かの為にさえ、社会の有する富の相対比が調度裾野を拡げる富士山の如く末広がりを許せば許す程、詰り配分と調整間に調和的正義を適宜に達し得るほど分業の合理化を計る建築本能の微積に応じ、適応価値の寛容さは現実の物とも成る。
 かねて文明国と呼ばれる場所で利潤や生存自体にさえ無用の構造が生じる珍しさをのみ理由として時に保護され、又は擁護され、奨めて養生さえされるのは冷静に観察すれば分業制の経過である。専らなんの稼ぎにもなりえない無駄な体制を切り捨てないのは、それだけの変異幅を養っておく余裕がなければできないことだ。地球で最初に8の字を画いた蜂はおそらく誇示の性選択効果の為に運よく保存されたのであり、決して公益を仲間に認められたからではないのは最もはじめに発明された行動型が稼ぎに繋がるまでに大幅な差延がやむをえないくらい複雑な協力行動を余儀なくした社会であればあるだけ真だろう。寿命より長く効用を持つ個体の変異の合目的性はそう信じられている様、一般に芸術の天才と呼ばれてしかるべきだろう。その突飛奇特な蜂の一群は次第に種内に広まった遺伝形質が再びその指導力を獲得させるという偶有の功績あるいは企業性の為に他の旧態依然たる付和雷同的や放浪気質的な昆虫群より多くの資料を集めることになったと考えられる。
 偶々果った既存秩序より勝って分業化の合理を達した独創の、又随って芸術性の生得形質はよくもゆとりがあればこそ、自身には多かれ少なかれ経済的欠損があろうと後生大事に保存されるだろう。そしてこの形質が一大部位を形成するに当たって社会は彼らの有する合理的特徴から利益を受けることが益々多くなるだろう。逆に協業的形質はそれが模倣され易いだけ凡庸な構造であればあるほど、競争的価格平衡の作用に才能としてより希少ではなくなり収穫量を減らしていくだろう。まるで遷移する樹林に等しく、日光を支配する為に伸ばした枝は他の木々がそれを真似る限りで栄養を享受する、企業間の競争的遷移。
 以上が富山湾化と形容されうるが如き形質と環境との相互変異あるいは文明建築の基本的な運動法則である。我々は富士の法則としてこの末広がるほど豊かになる社会性生物の道理を認識することができる。そこでは崩れ易い低い山であるだけ急峻な構造の幅を、安定した優美な姿であるだけ多彩で分業された末広がりの生態の各適所を必要不可欠とする自然法則を、社会体制の必然的変遷の規則に見立てることができよう。たとえ直接の種間か種内の競争が何らかの協同か共生の方法で部分的に又は殆ど全面的に回避されている中から高度の社会性をもった生物属にとってさえも、その経済適合の規則は普く一定の構造の可塑化を続けようとする懸命な自助と協調の連綿たる作為に従うと知るのなら少なくとも既存人類については、世界計画への逆恨みを含む狂信者らの誤った偏見を破棄させるに十分ならんと反省させられる。