2006年6月7日

記憶作用による生と死の通念

記憶はニュートン力学的な二次元時間系列順に必ずしもない以上、我々が普段時間と呼ぶ観念について、生死に対する憂いはすべて徒労でしかない。生死の傾きは記憶にのみしがみつく哀れな物象であるだろう。端的に言って、生と死は言語概念上にしか実在しない虚構。我々はその幻影を通じて記憶を手探りするにすぎない。だが記憶よりずっと未来を重んじる人々にとってすれば、そういった全体は滑稽の劇場の他には観賞しえないだろう。
 無知にも我々は未来人の生活から憂いが消える日を見抜ける。物流は常なる再創造の中にあるから。生命体という認知は仮想さるべき虚空の楼閣にすぎない。生死は究極的に実在の観念ではない。それは言の葉があそぶ我々の想像でしかない。
 生と死なる形而上的な概念は一般的法律に善用される。その場合の方便は唯単に人類の公共性の保護にあるのだから。