2007年5月30日

国際憂慮論

国家資本の必然趨勢は地球中を覇権方式順応へと追い詰めている。例: 英語国際公用の必然。

 だが、他方では自由主義の根本欠陥が功利の限界乃ち見えざる手に依存し、「見えし手」つまり調整的正義をないがしろにするのも確かだ。戦争の惨めな引き金、恐慌、環境破壊や食糧危機あるいは世界大戦などの悲惨が皆、自由主義自体に包含された侵略律から誘われざるをえない以上、我々はその狂信を揚棄して然るべきな筈。

 現存の常任理事が連合国際秩序の自己正当化に強く働かねばならぬ以上は、国連改良の為、国家資本の割譲が天下に必要となる。国家資本を私有財産から国連公有のそれへと次第に棚揚げする方策が考慮されるべきか。

 それはいずれ和平的穏便に図られる自然があり、であれば国連組織を世界市民政府に向けて折衷する可能性が審議されるといい。覇権国家が事実上の国際王政を担う現状を冷徹せよ。又、国際専制政治は常任理事権の寡占により発生する事情を客体鑑査せよ。

 南北格差は偏った地政資本から生じると同時に、国情の差縁にも密接する。例: インド人一般と日本人一般に各地で同然同趣の仕事量を要求しても無駄でしかない。国際分業が世界史の普遍‐部分両正義にとっての職業序列を附けるのは偽善。世襲制度はその侭、職能区分に反する所なきにしも非ず。ならば文化は否定され、文明が採択される。文化は手段であって目的ではない。でなければ人間はいずれ国際共栄を果たしえないから。

 もしある国民が立派なら、自ら協業の分別を主張し、国連政府の中に教育省を設けざるをえないだろう。国民文明間学力格差は国際分業合理化の妨げになるばかりか、却って国際社会不安を増長させる役に立ちそうでもある。ならばいまに学ぶ様教えることを努力する者は救われるだろうから。