2007年5月3日

奇形黙殺論

漱石『文学論』に曰く、もし一般教養に通ぜずして専業分野についてのみ徒な才能をかがやかせる者あらばこれを天才に非ず奇形と呼ぶべし。而してかの奇形を世にのさばらせるは退廃の流毒そのものにして、狂犬に対する如く迷わず撲殺すべきは社会全体の責任なりしや、と。例、われ現代日本中にもこの種の流毒をあたう甚だしき奇形数名おぼゆ。吾輩の見すに、彼らいわば現代日本に風紀の廃病をもたらす害毒悪因と確かに覚ゆ。われ未だ人間良識の極度を達成せぬこと哲学反省至当にして、もし社会上等文明士人からの忠辞あらばこれ等の奇形視を訂正する猶予ありしは当然なれど、現状あらわる清濁相対すれば益々明らかなり。しかも危険極まりなきは、これ等に同調する俗物ありて彼ら奇形が権益を拡張しつつある実態なり。然れど、もし批判なければ、かの奇形をして退化腐敗の極みとして生物界から永久に追放撲滅すべきことを期待す。なんとなればかの様な社会へ害をあたうまがまがしき悪才をむやみに増長させれば文明に明日なきこと必定たればの危機感からなり。
 尚、吾輩において更なる付加論説あり。漱石の説明、気負い誠なれど一点の曇りありけり。これよくも丁寧に訂正解説を要す。
 ジョンレノンの如く撲殺されたる人間たしかにあり。然れどこの種の判断にはやはり俗間の個人を通ずるがゆえ往々にして誤りも多し。ジョンレノンは平和主義者なり。決して人間に害毒をもたらす気違いに非ず。もしオーストリアの一青年や朝鮮の一青年がある奇形と見なしたる傑物を撲殺せねば世界史にクレオパトラの整形以上の変更ありしこと必然なり。
 いま例う。榎本武揚は日本史中に妖名を輝かせる奇形の最たる者と見なして然り。各士、歴史書中にこの人物の異様なる進退経歴を観察すべし。一生に二人を診るが如し。しかれど、この奇形者の進退に一人の鍵を握りたる大人あり。すなわちこれ慶応義塾の福澤なりけり。詳細はかの『福翁自伝』雑記の章中、癇癪の項に参照されたし。氏はある具眼の計略をめぐらし、榎本を撲殺の狭間からたんなる人情のため実質上救済す。別段に深い関わりもなき一人の命を助ける一心で、あれこれ手を尽くしてなにかれ気を揉ましたり。これ結果よりみれば尚更日本史上の一大美談たるのみ。すなわち、かの奇形の運命は氏の慈悲導き一煽ぎの次第に好転し、新政府の大役者としてロシア国交の条約に活躍す。この一手の善行、福澤流に釈せば時代と場所の適切を見分ける公智いわば思慮のなさを外側から補う手段たるのみ。吾輩、漱石は悪意非ずして撲殺の一字を黙殺と勘違いした、とここに破格批判する者なり。もし孔子いなければいかに東洋の風紀を維持せんや。またさほど抜群の名声なきShelleyの類、いわば当時流行の実証主義に揺せられたる若死にの小人と見なして可なり。神格大観を以て人間の児戯を見渡せばヒトラーや日本帝国関東軍参謀のような大業悪魔、あるいはニーチェやコントの如き発狂人の類、みな相当の流毒をもたらすに併せて同時に人間一般に狂犬たる反面教育の呈を後世永々為すなり。暗殺の奨めとも取れる漱石の説は、多少あれ極論野蛮の謬説たる事を認めざるを得ず。例、芥川龍之介やゴッホあるいはイエスやソクラテスのような隔世の才能、すなわち現世範囲の低知能凡人には必然に理解不可能にして、その真価が幾分なりとも判断されうるは時間を要するが故に、浮世の孤独に遂に辛抱しきれず夭折する者、人類史上甚だ少なくなし。然れど、例えばレオナルド・ダ・ビンチや平賀源内あるいは李白のような人物如何。彼ら現世の範囲では必ずしも後世からの評価相応珍重されず。これ等みな、凡人との才能の隔世ありしゆえなり。いわば突然変異たる天才知能の抜群によりて同時代に同類からの崇拝を必ずしも分相応にあたわず。
 もし彼らに対する撲殺あらば、いかなる得あるいは徳あるか。吾輩のまなこを以てすればなんら無用ばかりか、むやみに聖晨を壊す悪行と呼ばざるべからず。勿論天才も一人間にして、平賀源内の如く理由に関わらず殺人を犯せば裁かるべし。されど、あからさまな悪意なき限り、彼らの天才を存分に発揮させかつ黙認することこそ凡人らしさの肝要たれ。かくあればこそダ・ビンチや李白あるいは梶井基次郎やセザンヌ、等々なおいわば天才より秀才という用語に論を引き延ばせば終生無名の大数学者フェルマーなどもこの類の在野の賢者に属す。中華官尊の傲慢民卑たる封建風習これ未だに笑うべし。自由の個人においてしか真理発見は不可とはアインシュタインの訓なり。凡人の判断力の欠如、天才と狂人は紙一重なぞいう俗語に尽せり。これ単に、凡人にはどちらも理解不可能という意味なり。この点において、芥川や三島の如きはほど良き例証なり。吾輩の結論をいわば、もし天才か奇形か判断不可能ならば飽くまで黙殺することを要する。暗殺または撲殺のたぐい、決して後世に美談を開かぬことかの榎本救出喜劇の一訓示からすら悟るべし。
 反して朝鮮の悲劇的一青年、もし自由民権に理解ある伊藤を早まって暗殺せねば、もし金均玉を無惨にも誘殺せねば、もし米国で無情にも銃乱射せねば、かの憐れなる隣国の発展に阻害なかったこと一分の史的想像力あらば必ずしも歴史学援用の妄念に無き事、あらゆるテロリズムを憎む人道の士の常に肝に命じ反省すべきことなり。日本国の水に流すの風習、外人には理解し難きゆえ、当の戦犯合祀を客観いましむるも、かの韓国における暗殺行為の英雄視は如何としても蛮賊私刑の風俗として公然排絶せざるを得ず。例、日本史上の忠臣蔵についても暴力革命の責任は総切腹でみずから報いしことなり。仇討ちの忠義は決して私刑たる事を要せず。むしろ飽くまで公的賢衆の世論に訴え、現時的に公式裁判するを文明最上の策とす。しばしば裁判はあやまつもガリレオこの不完全たらざるを得ぬ浮世刑に大人しく服してなお晩年に至るまで宝物労作なしえたり。問答無き抹殺にては謹慎の余裕保釈でさらにかの不思議たる人物を観察し、不完全たらざるを得ぬ現世内時流の正誤差分を社会人間そのものが内省することすら全く不可なり。而して理解不可能のうち、明らかに害毒を与えぬ人物に関してはむしろ撲滅せず、黙殺(これ黙認して顧みざるの意味なり)し、孤立の末みずからの命を断たせることを最上の奇形排除の方便とす。万が一彼らが真実の天才ならば、必ずや求道をある地点で引き返し、漱石『文学論』にいわゆる能才との間に落ち着くことを人間普遍の法則と見なして可なり。これを天才の指導と呼ぶ。例えば、非常に足の速く冒険心に富む若者が群れから独りきりぐんぐん飛び出し、やがて誰も知らぬ地方で豊かな水源への道を見つけてとっさに引き返し、なかなか話を信じない皆に様々な工夫を凝らし徐々にわかりやすく説明し、結果次第に人類全体をより良き生活水準へと先導するようなもの。奇形はこれに然らず。例えば、足はそれなりに速かれど才覚さほどなくして崖の手前に咲いた花を見つければすぐさま慌ててとって帰り、あちらに花畑があると誘惑するような俗物なりしや。この種の俗物、おのれを過去の英雄に照らして奇を衒うこと史上に類似いとまなし。これすなわち、おのれ自身の勇気で道を進みたるに非ず、単にみながすでに当に忘れたる二流三流の古の道を再び辿りてすでに枯れた井戸を見つけ、ここに無用の徒を誘い込むわずかなる経過をして仮に一時の人気を博せんとす詐欺師と言うべし。されど人知いずれ薄弱にして群れから数名この奇形を追うこと久しく、いまや騙されたと気づいて引き返せば、かの嘘つきはもはや群れに居場所も無く、ただ発狂して自害するしか引き返す道なし。すなわち黙殺の必然はこのような俗物の邪道を試験する便利たれ。もし真実の道を見分けたる独行求道の天才ならば、いかに生涯無理解に耐え辛抱してでも、人類全員のために力を尽くして指導することを決して止めず。これをまた称して天才の啓蒙と呼ぶも可なり。すなわち彼が心底必死たればこそなり。人類全員はすなわち彼の種族にして、もし正しき方へ導かねばおのれのみならず家族子孫もまた同様に崖から転落する運命を被るがゆえなり。
 俗物はこれに反してかつての英雄を模したるたんなる悪戯餓鬼に過ぎず、やがてかの虚偽は皆にばれ、同時代は言うに及ばず史上の誰からも踏みつけられ忘却黙殺さる。漱石『文学論』中に、評価は才を図るに非ず、また必ずしも傑作史上に遺らずとは確率論の大観を知らぬ科学不足と呼ばるべし。もし数十年百年の流行はいうに及ばず千万を超えて億の史潮単位で人間学術を活眼すればいかなる妖しげな奇形といえ何があれど完璧淘汰さるのみ。正統たる天道だけが永久の進化の流れをどんどん前進す。いずれ人類史の栄光は天才良識からの献身指導の先にあること明らかなり。さればなぜ敢えて奇形を応急撲殺せん。われ慰みに天界の漱石居士に問わん。それによりはびこる暗殺の風習は遥かに、奇形の発狂より戒むべきにあらずや。尤に学士諸子、以上は極端の二類を明示する便宜に過ぎず、いかなる才能もこの俗物奇形と天才指導のあいだに微妙の偏差を伴って時代に生きるものなり、と諦め悟るべし。どの聖にも必ず個性的欠点残る。これ人間精神の成長進化に殆ど限りなき希望の余地なり。従って、崇拝と黙殺のあいだにも無数の評価の微差があって然るべきものなり。