2007年5月16日

国際倫理学

文化差は即、文明間の功利福祉を増進させる一方で、偏差により同類間に敵意をもたらしもする。

 我々はやみくもに自文化中心主義をとっては決してならない。なぜならそれは人類の不平等を当然とみなす様な傲慢や、近代文明への適合度が低い民族国家への蔑視に陥ってしまう。
 我々は今やあらたな国際倫理を折衷する責務を負う。多声主義はこのための第一歩でなければならない。なぜなら特定の立場の者の声に偏れば即、人間倫理は寡頭に傾く。
 すべての階級・人種・民族の声を聴く他に、globalism中途を乗り切る新たな倫理観を養生する道はなさそうに思う。

 文化多元主義は母国の中に、混沌的多声環境を斉す。それは倫理結束: moral tieを少なからず破損し、伝統的な社会秩序を崩壊へ導く。近代西洋社会中で文化多元主義政策が退けられた理由もまたここにある。民族主義は適度ならば倫理結束の手段ともなる、と主張するたぐいのある新保守派層が力を持ちかえした理屈もここにある。だが、それはやはり、元々彼らがもっている善意とは異なり、国際偏差の拡大へしか働かない付け焼き刃。新保守派が支配的な先進国には、libertarianismの自由主義圏と同じく勘違いされたterrorismも襲いかねないことは避け様がない。なぜならその様な保守化した集団が広い公共心をわずかでも失い、自民族中心主義へ近づき利己的になった時追いつきがたい途上国にとっては羨むべき相続財産権に他ならない、と捉えられてしまう。それは国内的な金融資本への調整的立場とは違って外部からは寡頭集団に映る、という勘違いに基づく悲劇ではあるが。少なくとも、広い公共心をもつ保守主義がありえるなら、そういった人々にとって最も。
 この最後の場合、もしそういう複雑な事件がありうるならだが、最も状況が悲劇的なのは利他的な善意をもって地球規模の再調整を行おうと志す保守派が、それとは真逆の我執に凝り固まった利己的行動原則で動いている革新派、進歩派というべきlibertarianと同じ程の被害を、国家という単位にあるが故国際金融資本への狙い撃ちをするterroristの標的になってしまいうけかねない事、つまり理解度のひくい原理主義過激派がもった二重の愚かしさと天からさしだされるはず蜘蛛の糸を断とうとしている盗賊の暴挙によるのだろう。しかし、この原理主義の根本意図も調整なのだから、それをある国家で行おうとする保守派をも攻撃するのならばやはり拙速な誤りであり、彼らterrorist自身が矛盾している。原理主義者は先進国や金融資本に関連している保守派を攻撃すべきではなく、libertarianを最大限和平的な方法、できたら経済合理性の面から途上国への投資という形をとった喜捨の説得をする方が効果あるといえる。