2007年3月29日

文明化の仮説

人間の進化が生態系の種内秩序に適応した遊戯に最適化する流れなのは疑いづらい。例えば科学はこの為によく設らえられた分野だと言える。万学の雄となる為に必修な単位は限りなく、従ってあらゆる科学者は一度も研究に飽きない。だが、文明は一夫一妻制度に応じて個性差の最幅化、及び平均性の最多化を目指す。いわゆる捨て子や神権が失くなった背景には文明の智恵がある。とすれば、ある種の繁殖には制限が設けられるべき訳だ。自由恋愛とは優良な個性を選択する好みによる性淘汰だと言える。好みの振幅が広がるほど、古代では死滅したに違いない変異にも繁殖可能さが設けられる。それは究極、最多的平均との量的なつりあいの問題に過ぎない。例えば、背短や肥満が中肉中背に対してどの割合で繁殖しうるかは、少なくとも大分の環境異変がない限りさほど極端な比率として変動するわけではないだろう。これは同様な肉体的個性を伴った女性の求愛が可否に遇う確率と対応するだろう。
 文化的性差があるにも関わらず、個体差は好みをかなりの程度、人類が生活してきた地球らしい環境へ普通的に適合させることに成功している。また人間は同類であるから種内競合は飽くまで発展の方便である。それは生存競争的な摂取活動では最早ない。いわゆる遊戯の種類が問われるのは、この理由による。
 人間の偉大と悲惨とに差分が見出せるのは、ほぼ同一の生体基盤にありながら適応行動の格差があるからだ。われわれはいずれ政治活動、経済活動の順で労働から解放されるに違いない。なぜならそれらで用いる特性はより野蛮な様式に過ぎないのだから。われわれは古代の世界史に政治家の名前を、近代史に経済家の名前を、未来史に学術家の名前を、より多く見出すかもしれない。それらは実践から技術を経て理論へと至る人間の進歩を示している。