2007年3月25日

認識論

カントによって破壊された哲学を復活させねばならない。哲学は単なる修辞法の政治的実践ではない。この点では既にあらゆる後構造主義者を批判しうる。彼らは現代階級を合理化する偽善者と呼ばれる。
 哲学は新規学問を創り出すもの。実践理性と呼ばれる洋式文脈の作用はカント式自己愛の妄念に過ぎない。使用記号の種類が異なるだけで、本質的に科学と哲学とは相互に異化の行為ではないから。帰納と演繹の両者は仮説に対する検証の時代間変遷という全体集合にとって同様でしかない。乃ち、それらは思考の聖化傾向に過ぎない。
 しかも常識を含む潮流を左右するのは単に産業体制の移行。常識は唯物史遷に依存する。だが、応用科学の進度は純粋理論に縁起している。よって、哲学の深度は語族的行動傾向の常識を文章的に合理化したものに過ぎない。
 哲学が新たに創り出す学説は天才に待つものというより、同時代教養体系が孕んだ無知に因る。知識は哲学説の信憑傾向を客観化した後学の賜。
 近代人は、哲学は自律した精神による神秘の説明だ、と盛んに説く。これは確かに道徳の根拠を自然の目的論に求めねばならなかった近代人にとっては適切な謂われだが、少なくとも現代人類は目的論を定常宇宙膨張仮説の永遠性に頼む位よりは懐疑的。その大意は数字記号を含む語義自体が説明する範囲の論拠を形而上学そのものの差延に求めねばならない、という矛盾に帰着する。乃ち、人間が知りうる真理は仮設の安心感である他なかった。
 道徳の文脈語義が進化論的に瓦解する時代にとって、認識の定義は文明自体の批判に他ならない。