2007年3月12日

脱構築批判

諸言語は等価であり、我々は慣れの応力度に準じてnativeと以外とを便宜しているにすぎない。よって、言語をnationと関連づけようとする者は文化の等置互換性に無知なのだ。
 私はデリダをこの点に至って批判する。
 Bilingual以上の人間には文化の土着性は否定されている。異言語間の差異は倫理というより遥かに言語学上での命題である。
 脱構築は文学textの読解のためにのみ有効で、哲学の手段ではない。逆に、哲学とは絶えず定義的な批判の体系である。
 我々は倫理学のために脱構築を援用すべきではない。もしこれを逃せば言葉遊びが人道の尋常に違いないと勘違いしなくては済まないだろう。