徳は適応行動の性格を少なくとも時代と場所に適合させた文化的なものだ。これが絶対でないことは自律のありかが個人である事に等しい。従って道徳神学は建築的形而上学ではない。我々の定言命法すなわち良心は別の目的を創造しなければならない。自然の神格的本質に神という通例人格的な観念を用いる事は宗教の範囲に属する。又それが普遍的ではありえない事を何れ後構造主義者たちは西洋文化圏内ですら論駁していくだろう。哲学の方法は特定の限定的環境において有効で実用的な徳を再構築することだ。それが形而上的な言葉遊びによる表記であるのは避けられないし避けるべくもないが、実態としての批判は常に社会の非建設的錯誤へ向けられる。よって道徳神学を脱宗教的へ改造することが必然。
世界体系の最終目的を言い表す表語を様々に考察してきた古人に則り、私はそれを幾つかの既存の語集から取り出さざるを得ない。新たな
辞を流通させるのは不合理だ。
しかし神という言葉だけは用いるまい。それが既成宗教を統括しようとする建築的独裁であるのは明らかだから。人格性を伴って偶像視しうる対象的語意を退けるに如くはない。万物の目的を道とか法則とか呼んだ哲人は少なくとも喩えを避けただけ徳教の原始的幼稚さから免れている。