2007年3月28日

文明化と半閉鎖系の関係

原則として人類の全体は今後とも幼形化して行くのは先ず間違いがないだろう。それは彼らが生態系における最高次の消費者である、という地球環境の人間性がある限り普遍である。なぜなら種内競争、特に性選択にとって最高の便宜となって来たものこそは知能であった。我々はそれが故に類人猿から人類に代わり、未開人から文明人に代わった。
 もし文化的な偏見を仮に考慮せず幼児化の先端が日本人男性だと仮定すれば、彼らが導くべき世界史上での役目は先導役にちがいはない。子どもっぽさ。それが地球環境について最良の適応成長方向性であることは専ら疑い得ないと感じられる。なぜかなら我々の繁殖活動は社会活動に対してもはや最優先を待たないからだ。
 必要な生産力に対して人口飽和が起こった国々ではあきらかな如く、我々にとってかつて生み出し得た最善の倫理観念は個性の最大化に他ならない。これは我々自身の生存にとって有利なだけではなく、地球そのものの生態系が導く目的、永久繁栄の筋書きにとっても、進化論上妥当である。結局、我々の脱構築し続ける社会体制は制度により人間へある抑圧を加え、それを通じて倫理観をも常々新たに浄化せずにはおかない。一夫一妻制度は安全・清潔・医療など一定の近代文明的な基盤が築かれさえすればおのずから最適化される訳だ。それはいわば文明の智恵である。かつて滅亡した文明においては、致命的侵略者からの迫害を除き、凡そ体制循環への窒息があった。体制は周辺諸国の生産力の進展にかえて絶えざる革命を要する。革命権を主張した中世の古人は正しいが、これが政権交代における虚ろな喧伝にとって衆報上で目的化するのも正しくはないだろう。我々にとって大事な倫理哲道とは、体制批判の役割をどこかの知識階級に必ず余地させておくことだ。思想に国教を設けてはならない理由はここにある。検閲を伴う極端な統制を避けるべきなのは、政教の癒着が自体で文明の滅亡を誘うからである。
 しかし君が徳に篤くなお賢ければ、前説を次のように批判するかもしれない。何ら規制のない出版表現の自由は、まさに愚衆の堕落を誘発し社会全体を退廃する、と。現代日本における無検閲の大衆社会のこの様な腐敗は、そのまま規制の必要を物語るものに過ぎない。国際風紀に応じた適度な倫理規制がなければ言論の福祉は実現できないだろう。