身体的成熟が社会内家計的而立よりずっと前に訪れるという環境要因は、それが青年期の一般的延長を通じて性行動の複合性を企画するが故に文明化の一段階と呼ばれる。もしこの種の変異幅の保証された場が進化の誘因として原理的なら、複雑な成長過程そのものが自己目的に斉す昇華の企みの為でもあるし、亦かれらが模倣を事とする限りでその学習伝承が個体群の社会建設に有益であろうからだ。
上述の内容を真と認めると何故、文明系では成熟的諸形質への一定以上の抑制要因が道徳に編入されていたかも明らかとなる。生物として対象化されるヒトは通常の生存競争要因を協同へと向け換える方便にそれを用いたのだったろう。より抑制され、より延長的となった性成熟の表象は益々形式的複合性へ寄与し、かくして単なる延長自体の為の新伸性すなわち幼型化さえ選択的となった。
感情として我々が只の感性(外界への受容的な働き)から峻別しうる生産的能動性は、結局の様、理知という否定媒介を止揚する働きとして性特徴の中心でもあった。選れた感情の表象は続く世代の遺伝形質の目安となる、感情は真似られる物ではなく純粋な神経系統の生育結果だからだ。我々の心を感嘆させる俳句は学習や後天的努力によってというより如何に感性の動きを合目的化なしえたかという精神の完成度を証明要素とする。多くの文化圏で芸術耽溺への批判が倫理として説かれた一因はその過度の伸長が自然性への再帰を呼ぶ為にであり、なぜなら合理化を施した担い手自身が学習者の代表だからでもあった。言換えると素質の隠蔽として模倣を集積した者が知識人とされ、巧みな言い訳を生業とする知恵者が栄える形質の幅の狭い区域では学問の、伝承後学習系の権威が本来の自然的秩序を覆い隠す役目をつとめた。あらゆる学者が規範として仰いで来たユークリッドの体系さえも測量術を後学化した天性の追認に過ぎなかった。創造的知性と呼ばれる働きは存在しない。全ての知性は模倣の活動である。それは近代世界観の基準とされる力学にとってさえ自然運動を原論風に叙述する手段を代数学に基づいて考察した証拠に外ならないこと、我々が知識と見做すどの科学活動も体系づけられた模倣の積算であると考える他ないものだ。
進化にとっては依然として審美性が有用であって、また感情がその特徴となるのも疑いがないことである。雄性形質としての理知は、寧ろ文明場にとって条件付け、或いは基礎付けの役に立つに過ぎない。独創性は感情の技術においてのみ見出だされ、模倣と教育とが更に強化された社会環境にでも未だどの個性とも異なる遺伝的素質を開花させられる場合にのみ、綿密にあてはまる好ましい方向への突然変異つまり進化の実証なのである。この種の特徴を慎重と熟慮をもって集積させ、かつ配偶と養生を欠かさないことで人類は、文明を殆ど天国と見紛うばかりに協同の為に好適な系とすることができる。