2009年3月12日

偶像論

現代社会で偶像、idolの果たす役割は軽視せらるべきではない。青年期の延長はその中途段階で文化的昇華への期待値を、代償によって補う必要性を益す筈である。特定の性特徴を選択的に表象させることを通じて、最大多数へ可能な限り経済的な代償情報を提供する生業は巨大な規模で膨れ上がり、いわば生けとし偶像興行としての芸能界を形作っている。成る程それは虚構であり、聖像、iconとしての演技体系を意味するに過ぎまい。だが同時に象徴制に関する累々の議論を省みてさえ我々は、演劇の巧みさが協力行動の強力な紐帯となる現実を否定仕切れる迄の世界精神的秩序には無い。
 すると人間という未完の機関はいまだ偶像を少なからぬ方便として必要か活用形としている。

 幾つかの聖書で禁忌の条項へ数え上げられる偶像崇拝はそれが本来の現実をも覆い隠す程に増長させられた限りで、狂信をも誘う可能性の故に悪徳とされた。虚構を現実と思い込むことが代償への耽溺を際限なく加速させればその個性は当然ながら、幻想に惑う世間の不案内者として被淘汰の謗りを大分免れなかっただろう。他方ではこの種のカミガカリ的精神状態が精霊思想、animismとして信教の具に益した文化史にも人類は事欠かない。それは被抑圧的な無意識の領分に関する専門家として、霊媒師や神聖宗長、所謂shamanらを次々生み出していく。彼らはまことしやかな嘯きを以てつくり物語に託し、現実には満たされえない仮の情報を与える。この能力の為に少数部族のみならず多くの民族状態に於て巫祝階級の存在、或いはミコ的な存在が社会内でひそかに補償されていくものなのだ。
 結局、現代人が政治として記憶する集団的調整の行動形とは可能なだけ合理化され共有もされた呪術信仰の名残りであるのだろう。その体系は殆ど群生にとっての無意識の集合に他なるまい。演劇術に関する基礎的変異の保存は憂き世に芸能界を恒常的とし、かつその内で更に審美化された経済界と倫理化された政治界を構成する。彼らが演技者として群れ、如何に振る舞うかは象徴制についての価値観に基づくものだ。浄化の用に類する限りでこれらの配役はまた性選択的とも呼ばれ得る。なぜ偶像が禁忌の慣習の元で暗黙の内に伝達されていくかの理由が正に、それがつくられたまことであり、演劇術による代償行為であるがゆえになのである。いけにえとしてidolは現代にも生き続ける、象徴の作用による慰めの方便と呼ばれるだろう。だが我々はやはりそれを合目的形相と見做すことならず、現代文明段階では止むを得ない群的象徴化すなわち便宜な社会形成の手段と呼ぶしかない。地位肩書が要求される組織形態ではたとえ嘘であっても配役を用いざるを得ないのだから。
 将来の世代にとっての解決は、社会形成の最善の手段に位の援用を最小化する理念の発明に待たれる。実際に犠牲の居ない世界は又階級制の組み替えが自律流動的で恒常かつ頻繁となった本質的相互等価の世界であろうし、若しその様な社会形成の原理が代償を無用か不必要とした範囲を広げるほど幸福の閾値も少数階級の独占物でなくなり益々普遍的とならなくてはならないだろう。