2009年3月3日

救世主教の再生

キリスト教道徳が浸透していない事実が日本の国で「罪悪感」の希薄な一因ならばやはり何らかの工夫でその教義を復活させるべきである。
仏教が国民の安心へ深く染み渡った今日からみれば、儒教と共にそれを輸入した際の太子の心配が取り越し苦労だったとさえ感じられる。無論、巧妙な翻訳作業による和風化が施されたからこそ国統は保ち得たとも考えられる。

専ら直接政治の蚊帳の中で信教を革新することは不可能だし、実際にそれを試みている政党等も存在するが法的に政教分離原則の歴史的正しさを参照できる折、政治参加すればするほど状況は悪化し、人心は混乱するばかりである。
 従って、經国の大業をなし遂げうるのは在野の宣教師でなければならない。

例えば凡そ平和の続く時代にあると、大陸から孤絶した、高度に感性の栄達へ好適な季節風土の色彩の強いこの島国では、優美の極を通り越して深い頽廃に沈み込む傾向が潜在している。その象徴として記録されている文芸に源氏物語もある。
恐らくは先史時代における、魏史倭人伝へ示される多婦の風習が遺伝的形質の何処かへ記憶されており、外敵の侵入もさしたる内乱もない期間が連なると先祖返りの法則がその澱みとして現れてくるのだろう。また反動として真逆の形質、平家物語にみられるが如き激情的好戦性もやってくるのだが。
 一般にキリスト教道徳が浸透した文明国ではそれら退行、反動形成の歴史現象を観察できない。モルモン教の希な例外を顧みても寧ろ極端な厳格説の行き過ぎで侵略的布教傾向には先例を事欠かないとして、概して国内に頽翳の兆しは看られないらしい。勿論国教会化には権力集中の腐敗が歴史の常として普き。
ゆえ必然に、キリスト教道徳の布教には「信仰中心主義」を自律して回復し直す必然を負う。集徒化し易く又それを正当化する文言さえ聖書には存在している上、脱構築からの文章論を再検討してみても原理主義化を逃れるにはキリスト本人が正に模範をしめした様、「自らの十字架を背負って」個人の内面からの信仰を告白し続ける他、良策はないのである。

上述の事例ひとつ取っても極東の倫理は完成されたとは未だ言い難い。現実に姦淫自体を巨大産業化している国民性とは神の子にとっては目を覆いたくなるばかりの地獄全体でもあろう、この絶望の彼岸を前に我々信徒の勉めとはかのカルウ゛ァンの抱きし理想と寸分も違いはないのである。すなわち神の恩寵を信じて天職へ一途殉ずるべきなり。あの奢れる資本家達が針の穴の筵よりもっとカミノクニへ入り難い限り、少なくとも一心不乱の努力の継続によって魂の救いは訪れるであろう。