2015年12月14日

経済学

奢侈品(以下スズキ財、需給に関する無限性をもつ。即ち単なる顕示的消費の為のギッフェン財を補完する、母集合的概念)の使用を禁ずる事が、必需品(以下スミス財、需給に関する有限性をもつ)の供給をましはしない。それどころか、奢侈品が製造、流通、販売、使用されるまでに便宜品(以下ケインズ財、需給に関する限定性をもつ)の需給を促し、さらにそれらを消費するまでに必需品の需給を連鎖的に促す。従って、所得上位者が奢侈品を購買し或いは顕示的に消費する事は、微視的にみたとしても、巨視的トリクルダウン(滴下)理論とは別の立場から、単に経済成長の起因となる為、社会にとって有益である。この経済学的解釈を、ここではスズキ効果と名づける。またこれらの奢侈品はある文化的な活動を意味し、その社会における十分な生活を表象するものな限り、人類に望みうる最高目的物である。その上、スズキ財は需給に関する無限性をもつので、その高級化がなされるほど望ましい。次世代はその時代における最高達成形としての当財を、なるほど可能な限りあらゆる人々へ無限の需要を促す性質のものであるから、普及のため大衆化させようとする。こうしてある時代の貴族の教養、嗜みが次代では大衆娯楽となっている現象をみてとれる。と同時に、この新時代では別の奢侈品が既に需給されている。
 例えば仏教における上座部から大衆仏教、さらに日本仏教への展開、また、ユダヤ教からキリスト教を経てイスラム教への展開を鑑みても、宗教観念または信仰は当時の最高度の哲学のいいかえとして、形而上学的奢侈の思想的産物であると捉える事ができよう。一部の貧民がねたみ、うらやみ、ルサンチマンによって一部の資産家またはそうなりたがった勤勉な成金の奢侈、すなわち当の貧民には浪費にみえる閑雅な活動に対して、世論をあおり贅沢への禁忌を誘発した場合に、この社会における福利厚生は然るべき程度に低下する。甲の貧民が大不況の中で奢侈品の需給に必須の便宜、必需の品を供給する為の労役が根元から削減されてしまった事を、失業のうちに後悔しても手遅れなのである。
 他方、顕示的消費が経済成長にとって多少なりとも非効率の固定的な効果をもつ貴族趣味の産物に過ぎず、ある時代の無益な徒花であると見る向きがある。無駄の制度化を批判するこの立場における便宜性は、目的としてのスズキ財の観点が仮定されていない、旧唯物論的解釈によるものである。いいかえれば、貧民の最低限度的奢侈品の移行を、貴族の教養、嗜みの漸次的大衆化とみなすスズキ効果の観点を欠いている、と私には思える。
 なるほど、あらゆる貧民用の趣味が前時代の貴族にとってのそれであったとはいいがたい。この意味で、趣味の質がよく貴賎とみなされるのは、その時代の基礎教養程度からみてのスズキ効果をよく説明する筈だ。ある時代に達成度の高い知的状態、例えば江戸時代頃の関孝和による微積分の使用が、現代には高校数学として普及されている状態、あるいは、当時の江戸町人の浮世絵が東京商人の漫画に関する好みと対比されるような場合に対して、当時の数学水準を引き上げたイギリスのニュートン以後においてもなお、PISA(Programme for International Student Assessment)の数学成績が国際水準において下位の当国民衆の存在を否定できないとか、テニス或いは蹴鞠という旧貴族の娯楽が一般国民の間では野球やサッカーに比べ不人気である(しかし貴族側に大衆娯楽が遡る事は殆どない)といった場合が観察できる。いわば、スズキ効果には順繰りに貴族趣味の大衆化がされるときと、それが非常に遅れるときの2つの場合がある。後者については大衆娯楽自体でしかないものが貴族側に需要されづらい現象もある。つまり当時の大衆の道徳性にとっての娯楽が、彼らの求める奢侈嗜好品なのである。遅延したそれについては、ある時代の貴族に求められていた基礎教養そのものが、産業と並んで或いは別個にリベラルアーツの構造的改組で多少なりとも変化し、趣味の模範もが変質するための連鎖的現象であると説明できよう。ある貴族性が古典的となり、次世代では時代遅れとみなされる場合もあるが、これについても、その古典が当代の実生活に何ら役に立たないが故に却って教養学的、乃至、虚学的な権威を有することになるにすぎないだろう。要するに、趣味の質的変化は単に唯物論に基づいたものではなく、その社会で尊敬すべき立場の人々がより道徳的とみなす目的物の変遷によっている。もし、奢侈の貴賎とみなされている現象が単なる唯物論的変化であるとすれば、それは限定性のあるケインズ財の種類が変わるだけにとどまるだろうからだ。逆に、スズキ財に関しては、無駄や無為である事、つまり何らかの有限性にかかわらない遊びが顕示されうる事にその本質の一部がある為、工業的進歩とは半ば無関係に続けられて行くものなのだ。この観点は前石器時代から近現代をこえて使われる素材や支持体、研究媒体が立ち代わっても、当時の技巧に可能な最高度の芸術品、知識、道徳観念の需給が探索的に永続していく学術現象そのもので、たやすく理解されよう。
 そもそも、なぜ奢侈品が人生の十分条件かといえば、その無限性による。あればあるほどよい性質のスズキ財は、しかも、需要者の人生における限界消費量を満たしきれなくなった時点で私有財から公共財へとあふれ、その文化活動のもつ道徳性の限り人類の生活を豊かにしていく。