2015年12月19日

徳政論

政治家はあしき商売人の総元締めとして自分自身が民から搾取し、民の奴隷化を行い、権勢を振るうという俗欲の為に、人口をふやしたがっている。たとえ日本国が亡び、天皇家が土に還ったとして、宇宙はそれをなんら顧慮せず続く。奈良盆地にいた世襲の宗教権力者が成り上がりの俗欲で人々をだまし、星中の蛮族と殺し合いさせる。全て俗悪な政治屋のやくざ稼業にすぎない。成程、政治屋のなかにも少しましな者がまぎれているかもしれない。わが県の現知事はその一人であると私は信じるが、その上司である首相だの天皇だのが、なまじ薩長だの関西だのの蛮族であり、国連に至っては侵略犯罪を自己正当化した上に立つ極悪の集団であるというのだから、たとえ世界で最も高貴な県茨城が至善に止まっても、野卑な県外人が我らの徳を見習うとは限らない。それどころか、下衆な日本国民達は天皇の悪業を崇拝し、わが県の高徳をそしる始末だ。一つだけ確かなのは、下賎な民の中で下賎な天皇家が崇敬されていたという事であり、従って、愚民の上には辛き政治があった。
 高貴なる人間である為に政治がなんら役立たない限り、暗黒時代史にその名は現れない。つまり、現代は暗黒時代なのだ。
 他方で、こうも考えられる。ある時代の道徳からずっと進んだ一人の理念の中では、どの時代も暗黒であろうと。目的の王国、文明の太平、理想郷、桃源郷、神の国、様々な夢想家がいいあらわそうとした当為としての社会は、政治家によっては不完全に到達されるのみである。それどころか、民主主義等という意味のない誤訳された考えで、衆愚のえらぶ最低程度の首相、或いは天皇の元では決して、当の顕現ですら我々を満足させることがない。実際、私の眼には近現代の薩長や英米の悪政も、又、天皇という奈良出の新興宗教祖による隠蔽工作的な独裁も、それらをうのみに崇拝している愚民らも、一様に非社会的である。それらの反社会的存在が完全に反省し、縮こまり、或いは十二分に駆逐された社会が、本来のあるべき場所である。