運命選択された個体の形質は少なくともその天性に於いて進化する。それゆえ生得的にのみ、種は分岐する。自然淘汰は突然変異が機会的浮動と相関しながら働くことによってのみ観察可能なのであり、少なくとも環境変異の事象がなければ如何なる淘汰もない。というのは、小さな突然変異が適応的となるのは俄然、環境変異に多大な有利さが現れた時だけであるから。たとえば虫かごで飼育された昆虫の様なつねにほぼ同じ環境に置かれていれば、たとえ突然変異に恵まれた個体に於いても、決して性選択には有利さが働かないのである。それは環境適応にとっては有利でも不利でもない変異だからだ。この場合には自然淘汰という現象は進化と呼ぶにはあまりに緩慢となるだろう。少なくとも環境変異が働かない場所、つまり僻地では極めて突然変異の遺伝子が形質として保存されにくい。だからダーウィンが多数との競争の機会とか、個体数の少なさから有利な形質の現れる機会も少ないものとして、わりとゆるやかに考えていた隔離的な環境の進化の極端な遅さは、むしろ僻地の変わりなさという理由に帰着し得る。その環境では絶対個体数が少ないとか或いは生存競争の機会とかいう外部要因よりも、単に環境変異による獲得形質への風当たりがいつまでも少なかったという内部要因が原形質維持の起源となる。だから僻地に取り残された生きた化石の様な生物は、かれらが安定した生息場所という限りない進化の階段の終着点を、ともかく見つけられた結果である。
適所は種に対する有利さから与えられると言える。獲得形質のばらつきは環境から与えられるし、その既存の種から離れて必要とされる変異の度合いが少なければ少ないほど、突然変異が出現した際に特徴的な生得形質が有利さとして性選択される可能性も低く、従ってこの新種とされるに足るはずだった遺伝が種全体の習性に置き換わるということもまれだ。
運命選択という考え方は我々が生物界に於いての適者生存を、単なる獲得形質を闘わせる生存競争の面から認める偏見を戒めるかもしれない。この考えは環境変異としての獲得形質の形相はまったく土地の自然に依存していること、そしてその地の生存にとって有利な突然変異が貴重な天性として性選択され易い仕組みが直接の生存競争とは無関係であることを示しているからだ。捕食や被食についてであれ、或いは最大多数の子孫を残す為に行われる種内競争であれ、生物一般は単なる競争のための競争を行わない。それはかれらにとって生態的地位を保つためには無駄な行いでもあり、不経済だからである。本能に劣る種は少なくとも生存の確率を低くしただろう。従ってかれらの競争は回避できない生存目的のために、すなわち本能として保存された細胞気質の生態反応のため否応なく行われているものだ。またしばしば大規模なものとしても看守できる生物種の移動とはその競争から逃れるために、環境抵抗が各々の種で一定値以上の条件になった時に起こり、この現象がむしろ生物を生態異常として表れる同種間競争やその究極の末路たる共食いから救い、僻地に逃れる種を除けば既存の同種の群密度が低いがゆえより生存に有利な土地への適応放散に導き、却って各地に応じて更なる種分岐を生じさせる原因である。