2008年5月25日

自由教育論

Pragmatistは西洋文明での技術蔑視を反省し、少なくとも教育上ではその修正を施した。主としてデューイの仕事だった。かれらのliberal artsに於いては、古代ギリシア奴隷制の軛を脱出なしえている。つまり教養と技術の分離は、表面的には行われなくなった。これがアメリカのuniversityを今日の世界では最も生き生きと自由に学問させる原因である。
 然るに日本の大学では事情は逆であって、かれらには知識応用への潜在的な抵抗はないが、寧ろギリシアの愛知者が生み出したところの自己目的な探究心を欠かしている。これが科挙型試験の弊害なのは明らか。科挙制度は猟官を脱し成績を基準として中央集権を強化するには役立てられたかもしれないが、却って本格的な学問の探究をないがしろにし、旧弊を汲むところの膨大な暗記勉強だけで生き字引として以外の能力を民間に費やす結果となった。今日の中国でまったく学問が興隆しないならそれは当然である。もし“On Liberty”でミルが云う様に才能分散と情報集中が官僚主義に対する最良の国策ならば、科挙はこれをspoilするためにしか役に立ちはしないだろう。
 即ち自由主義的教育に於いては第一に適性検査が行われるべきである。一元化した能力は国力を減退させはすれ、官僚支配の再拡大という都合のいい結束のほかに行き着く場所がない。多様性はあらゆる進歩の起源であり、その根底には個性の尊重がなければならない。彼らに蹴り落とし合う不毛な競争より寧ろ互いにpositiveに協力し合う習慣づけを与えるものも、これらの人間関係における個性の大きな相違の自覚である。
 第二に、進路の複線化が教育課程に必需でなければならない。国家の生産型機械として以外に何らの生命力を発揮できない如き、窒息した個人を量産することは、最終的にはみずから国家の自滅を誘うであろう。なぜなら彼らは適性に即した学問の猶予を充分には与えられず、放蕩に流れ流され費やした青春期が打ち切られてしまったら嫌々ながらも、単なる生活賃金のために働く様な不良民衆だからである。この種の骨抜きにされた奴隷同然の愚民に反して自由主義教育が目指す個人は先ずみずからの意志で思考し、自ら立てた計画を実現し、自律の中で最大限の恩恵と猶予を与えてくれた郷土のために持ちうる全力を尽くして自発的に奉仕する様な優等な良民である。この様な行動に千差万別の才能を導きながらも、その進歩精神により国力を増大させる様な人物が多ければ多いほど、いわば生まれもった適性通りの進路を制度から阻害されなかった個性が多彩なほど、我々の教育はますます啓発というその英才養生性を発揮すだろう。科挙の旧套を脱し得た割合に応じて、我々の教育制度からは自発的探究心の旺盛な、好奇と希望に満ちた英才が育まれえるだろう。