2008年5月4日

文明の範囲

人間は最良の文化と、その為に働く経済秩序を人倫に要求する。これらの結果、人間は地に散らばり、互いに縁起して行く。人間が予想し得ない環境変異に適応し直しうるか否かは悉く皆、文化力量の程に依存している。もしこのような偉大な力量に到達しないままで安穏と日々を過ごしている気楽な国民存在があったとして、彼らを待ち受ける過酷な運命は全く一切を自らが招いた事とし当然に代えるだろう。従って各民族の当然の姿は明らかに文化圏によって差延する。
 ある時代の当然は、ほぼ同じ場所でも異なる時代では必ずしもそうではない可能性がある。為らば、我々が解き明かすべき人倫の立場は国際関係から抽象した国民性の文化的な自覚に基づいてこそ真摯であり得る。我々は他国民族ではない、という発見こそ、人倫に更新を要請する切っ掛けなのである。これ等の発見がない、或いは少ない国民存在においては明らかに文化的進歩は微少足らざるを得ない。人の間には当然の理念に性格差が存在している。
 我々にとって文明とは、こうして自覚ごとに国民的努力と共に打ち克たれる人倫の当然と呼ぶべきだ。そしてこの様な過程を尚更に辿り、登った地点の文化力量の程は須く、生存目的の道義的天性として、次世代では空気のように当たり前となり伝承されて行く。
 いわゆる道とは我々において文化浸透の当然に帰属させる事ができる。従って一度見い出された道はそれらの文化活動に人倫的意義が消失し得ない限り、著しい多様性の風景として種族内社会環境に彩りを添える。此れは芸術化であり、人間関係の道理を審美表現する為に工夫される人倫情報の草花。そして又かれらの環境が芸術的な当為に隅々まで掃き清められるのが自然な国家に於て、伝統芸能は世代交代を趣味的に保障する。この為、まつりごとに於ての和合が唯一、彼らを只の経済的利害の相違から生じ勝ちな仲間割れから相互理解への道を拓き治し、郷土の、従って彼らの属する国土の耕作に開拓の余地を与えている。
 道は彼らの芸能を拓き、彼らの和合を導く。文明が理由付けられるのは、我々が文化種族を自治的に継承して行く範囲に於て已だろう。何故ならこの外側においては道は必ずしも人倫情報の抽象ではないのだから。此所に国土の風景に違いが生じる由縁があるのだろう。我々は伝統の他に持つべき共有体験の構造を有しない。