2008年5月18日

目的の多様性

多様性のみが進歩の起源である、と或る自然学者が言うのと違って、実際には優れた美意識の多様性だけが進歩の原理。だからこれは審美的多様と言うべきで、あらゆる事象への無際限な多様ではない。少なくとも取るに足らぬ、或いは極端に有害な、奇形的変容というものは果たして、単に美意識の反例となる為にさえ下限を設く意味を持たないものだろうか。曰く平均より詰まらない変異には保存される価値もないと言わざるを得ない。我々は下生えを払ってから庭の掃除をする。単なる雑草においては庭木を語るだけの労力を費やすべきではない。
 ある特別な変異についてしか多様性を保存する審美的価値はない。何故ならこれ以下の詰まらない変異に関しては凡そあらゆるうつくしさの為に害を為しはすれ益をもたらしはしまい。
 反対論者が合目的性への過度の信頼が却って合理的ないし倫理的進化の為に殷賑害を主張したとしてあれ、かれらはひとえに矛盾の意味を知らない。それらの目的はよりよい個物の創造力にしか起源しない。それは庭の雑草を放置しては何ら松や笹の配置を案じられないのと同じである。人は雑草の為には雑草の、庭石の為には庭石の論理を用いるべきで、庭そのものの構成に邪魔となれば自然な成長さえも美意識が為に剪定されねば却って幾世代後のありうべき自然な構図を破らぬとも限らないのだから。
 自由は文明の手段であり目的ではない。