2008年5月18日

学問精神の欠落

日本社会における「自由」は権益により守られねばならない。愚民は自由を持たない。それは人間性に対する不信を悉く取り除く為になされるべきだろう。

 曰く、みずから真理を探求するところの科学精神や、哲学的批判の精神は日本人において単に、功利性としてしか捉えられていない。執拗な迄に彼らが謀るのは科挙の旧弊を汲むところの就職出世主義の肩書きである。
 この為に、民間に求道精神は分布されず、国家官僚の呼び物として学問が支配がため集中手段化されてしまっている。均質化された愚昧な民衆への煽動が容易な場所では、根底的にfascismの原因を奪うことならない。著しく批判精神に欠ける者は自由より和合を優先する。この為に、正義は予め甚だしく抑圧され、俗物からの「空気を読め」なる村社会的談合からの圧制により、言論及び表現の自由は自ら廃棄されてしまうことさえある。日本は少なくともその支配的階級の自意識の他に、民主主義国風を一切もってみずから獲得していない。それはただの知識人らのposeである。国政すら村社会の組合をなんらでない。

 第一に、東洋の惰眠を覚醒させる天才が喚び出されねばならない。
 第二に、大きな反省と共に古来の非行たる中華文明への無意識の執着を断ち切る社会改革が必然である。
 より優れた社会制度を前に、否定媒介として以外に旧く廃れた思想は役立ちはしない。

 日本は西洋文明の一部である。我々は劣った社会制度にしか行き着くことなかった中華文明の悪弊を今一度、民族の非行として戒めねばならない。我々の内に昇華された日本思想に染み込んだ東洋文明の過ぎ去りし輝きは、今後なりとも栄達の道を用意はしまい。それは既に枯れた花である。残されたのはかぐわいでしかない。我々は新たな文化を咲かせねばならぬ。
 我々は西洋文明の制度的土壌の上で進むことを要する。今では古代の香りを唯にも伝統芸能として活かす他ない。