2008年5月16日

詩説

趣味運動は和辻の云う絶対否定の空が起源にある。若し否定媒介がなければ社会には趣味という理念は有り得ない、其れ故に空は常に帰来する全体観の起源。無人島に趣味運動が無いなら、そこには空の生じる余地が無いので、人間は唯おのれの感性だけを規矩とし他を省みる余地を持たない。実用的行動性は全く空を排除する、自己中心の観点已を焦点としている、と我々は理解できる。趣味運動はあらゆる定点を否定媒介として已、その選択された仮設規則に対する普通化の原理となる。
 我々は空を以て理を廃するだろう。何故ならどの観点にも滞らぬ限り、その理は屈せぬ様には個性を保たない。へりくだるとは空を斉す再生された絶対否定の契機なのだから、究極の趣味は流行してとどまらない。これは不易とされた空を以て理を説く態度、云わば不二原理に根幹的に係わる。だから個性というものは不可分である以前に先ず空。
 この人間性、社会との否応ない一体環は自体としてのみ分析することを許さぬ文化的な根を張り、地を風土に即して馴らし、文を化す。だから個人に対する個別的な思考はそれ自体として意味はない。デカルトの功績は不可能さを悟らせたことにしかない、個人の定義を社会から自律して思考することについての。我々は思う個人を社会的人間関係においてしか視ない、従って彼の神は他人の神からの抽出であるというより、寧ろ自らの信じる唯一神への信仰告白であってその精神規範は必ずしも普遍的ではない。何故なら神は彼の信じる唯一神以外にも文化的な規範と成りうることを世界中の多彩な思想は示す。これはデカルトの文学性をこそ示すが、その規範を普遍化する信仰Ideologie自体が全く空虚の部分に過ぎないことに疑問を挟むまで疑義ではない。故に精神は何処までも空を出ない。それは主観の否定以前である。
 趣味は空を以てみずからその範囲を出ない。岡倉の云う互譲も斯くある社会環境の定分にいでぬ、無きが如き主観の鑑賞を全体帰来の絶対否定運動としてもたらす。よって根底として趣味主義は空にしかない。それは国家人倫を審美的に脱構するためにあるともなく約束された場所へ親密に関わる。エデンの園では人間が動物達を管理しないだろうか、同じく、若し生態的秩序が神の計画ならその為に必要な規範すら信仰の相対的な正当性において既に、文明らかに各々の民族地図へ記されているのではないのか。
 語られない言葉には個人はないとして、思想に個人というものはありえない。ただ責任を与えてしまうのは社会が空を破ることにおいて、行いに罪を与えることにおいて。言論は自由にとってではなく、社会的義務についてのみ制限の態度が許容される。その規制は全く理由に因らねば正統さをなんびとも主張できない。よって、人間は言論に関して徹底的に圧制に対する批判を全うする必然がある。さもなくば人間に如何なる正統もない。言い訳や屁理屈とは暴力がすべてを支配した野蛮界の減刑であって、戦争状態にない合法環境での至善たる理由はその批判的吟味に際してしか真偽を比較対象できない。人間に理由を語らせよ。その満足が達成されないところでは如何なる罪もない。
 人間は国家を管理する全体帰属性の体系的な規範において、少なくともその差延する構造的継起において空を達する。沈黙した社会では巧言や論議は起らない、従って異説というものはない。詩とはこの様な趣味の為に話された規律であり、そこには正否はなく、少なくとも己のない真心の境遇だけが残る。ここに理由も表現目的を達成する。
 だから総ての人間はその言論について詩を任じられるべきだろう。それを塞ぐことより醜い行いは地上にない。黙らせるより人間性を堕落させる罪業はない。人間に話させるがいい。怨みを遺せば祟りもあるだろう。かれらにとってではなく、かれらの空を充たす言葉のとりまきにとってその吟遊はまるきり自然に属す。どうしてかような風紀が合目的でないことがあるだろうか。