2008年5月5日

自然哲学

自然は自然にしか理由を持たない。自然とか理由とかいう観念そのものが人間製なのだし、これらへの理性的処置としての文体学も単に、人間的な自然つまり文明の一部でしかない。文体学そのものがいずれ社会学的な言語学野へと回収されてしまう。
 人間は生態系が編み出した地球型生物形態の一種でしかなかったし、これからも人間であればなれ、そうだろう。彼らは運命選択の試練により化石とならねば生き残るかもしれない。だが、たとえ人類が滅び去っても地球は目的を失うまい。自然はみずからを目的とし、他を目指さない。人間が自然の精神としてみずからの目的をこそ目指す様に。
 結局のところ、我々は政治と経済という観念を演劇芸術の一類に還元しうるもの。それらの為す並べては演劇術の同時代方針に過ぎない。従って、演劇芸術の時代間様式が容易に研究されるときが訪れれば我々は政治と経済という観念を無用とするだろう。それらが近代流行した演劇の技法に違いなければこそ、未来の時代劇においては異なる理念が確立されて行く。社交美がある審美特長の強調なればこそ、実践術や折衷術が多数を占めもする。これらの基底としての構造が曖昧であるからには、ある素材の発明が全く社会形相を一変させることもあろう。
 ならば我々が社会学つまり、哲学の真実の対象とすべきは芸術批判で十分。この審美論においてこそ人間活動の全体が解明されえる。文明論とは基礎科学の完成により現れる社会学的な芸術批判の体系に他ならない。哲学の目的は芸術批判として考えるのが賢明であり、専ら複雑化に傾く軽薄な細分趣味に警鐘を鳴らすに充分である。より包括的な全体論を構築し、自然科学的な理論知性から分岐したものとしての実践理性が準備するのはひとえに、芸術批判としての社会学説だけ。
 我々が望みうる最高の英知は自然の原理を通して世界の経済美を分析的に鑑賞することにある。エネルギーは宇宙という我々を含む全体の中では少なくとも閉鎖系遷移に似た現象としてのentropy増大を示す。ここから、宇宙という現象系秩序が経済の既成modelとして学ぶ対象となりうることが分かる。この宇宙は熱的死を逃す為に次々と経済生態を発明する、彼らは熱平衡を系を逆転させることでparadoxicalに回復する、これが生命体である。そこでは得られた美術を理論や実践の対象とし直し、より調和を高める技術が開発される。即ち自然は恒なる模範の対象として我々に最も身近にして遠大な劇場を魅せてある。