政治や経済は対象ではなく、ただ人間社会の活動形態への形容であって、我々は仲間が協力する間柄を政治的とか経済的とか喩えられるだけ。企業は生産的、家計は消費的、政府は調整的という区別はあってもどれも、人間社会の有り様。安定した希少価値を有すると公認された金を仲立ちとして、我々は地球生態系を人間活動の貿易体系へと部門工程化して行く。商取引とは貿易差額を功利的に均衡させて行く為に民間の工夫を解放することを合法と見なす範囲について、配分的な正義を主張もしうるもの。だが必ずしも商人が正義なのではない。彼れはこの工夫の技術的独占によって、その信用機密が解読共有されてしまう時間の中でのみ儲けの自由を効率の原理とするから。彼はこの創意を見つけだす才覚においての富を当然の献納として主張できる。彼は社会にとっては妥当な対価をありうべき負債感情の軽減として頂戴する調度よさに関して善良で、有り難くもあり、保護に値するから。
逆にもしこの工夫が非常に単純で誰もに容易に真似されうる様なものであれば、寧ろこの企業主はできるだけ素早く市場から駆逐されねばならず、さもなければ価格は需給バランスの塞き止めによって不当に高騰したままで一向に世の中は便利にならないだろう。この事業者は従って配分そのもののためにすら不正義であって社会にとって害悪。我々はだから商標というものを本来、模倣不可能性についてしか認められないし認めるべきでもない。もし並べてのものに商標権を主張できる者がいればそれはいわゆる神だけだ。工夫した労力はその工夫の独創性について、すなわち技能の高度さについてしか報われるべきではない。
結局のところ自由主義経済の目的とするのは民衆の経済技能の促進。この導きが少なくとも幾分の犠牲としての劣る商才使用者の圧倒を余儀なくしながら国民全体としては合法的とされる根拠も、経済観念を道徳的な商業戦争によって広く啓発するため。
政府は、だから、市場の自由放任の際にその公正な劇場を守る適度な徴税のほかには、国民への道徳啓発に努めて然るべきである。ということは、企業は所詮、利益社会としてこそ消費者の民度に依存しているのだから、この国民性がもし教養という面で低いものならば永久に経済技能を身に着けないだろう。したがって我々の経済体系を少なくとも全体として便利で、しかも美しさに反しない建築体制とするのは究極、個々の家計主体における経済観念の道徳強度だけ。政府が単なる国立教育機関を各地にあまねく充分、誰しもに満足できる程度に無償で提供し、各人が自律してその進学を任意に選択できる様にしておかねばならない理由も、政府広報だけが世論の誘導という誤った啓蒙になり兼ねない大衆民主主義の上にある。その他に私立の教養教育が各人の家計に応じて選択できるなら尚更結構なことであるが、この前提には国立教育機関の充当という最低限度の文化的な生活民度の平等な提供状況が当然なくてはならない。国立教育における競争試験という寡頭制限はその必要な学習塾の跳梁においては半ば私立化に等しく、大衆民主主義の形骸化した堕落状況と批判されねばならない。つまり国民はただ自らの国家の努力天才者による再生に希望を託して、あらゆる家計主体が国立教育機関の志願者全入を当然求むべき経済的帰結としてかの施設環境の程度水準について満足ゆく増強のためには税金を惜しむべきではなく、又このためにはある程度の累進課税ということも国民にとって進んで奉るべき財政循環の原則である。