2008年5月23日

感覚論

どの意見も比べられる正しさしか持たない。真理は全て相対的真である。真実というものは絶対的に論じられる限りひとえに信仰とされる。どの真も、幾分かは偽の綻びを含まないことはない。知性の領域には本来、論争というものはありえない。唯、より確からしい見識を絣に晒す為に比較対照の議論すなわち意見交換があるだけだ。俗物という肩書きに事欠かないある種の史上のソフィストは屡々、詭弁という形でこのことわりを傍ら痛くも納得しなかった。彼らは学習と研究が知性の範畴にとっては単なる過程の差でしかないことを哀しくも、考えられなかった。懐疑論者の罠に陥らずに研究行程を進みつづける為には意見交換から感情を抜き取る習慣づけで十分かもわからない。つまり知性が為には冷静であれ。単なる概念のプログラミングには徹底的緻密さという価値観の他に大胆なる理想はないだろう。感情的論争に耽る形而下学者には、たとえ多少の賢者でも無知のアリバイが着せられてしまうだろう。学習者に教えられない真実というものとは所詮純粋概念の問答ではなく、直観の領域に属する詩的空想としての感覚論たる他言い訳もないに違いない。
 感覚論は常に趣味論議に帰着する。より優れて感情に洗練された感覚論が最も印象に残り易く、我々の審美観は百花瞭乱たることを要するに、科学的冷淡とは真逆の赴きと言われる。