2008年5月23日

和の害毒

ある社会において均質化への抑圧が潜在する限りその社会は比較的に弱体化していくのは自然。この様な社会は滅亡まで秒読みと言いえる。そしてより優れて文明化されたliberalな民族に侵略され、成るだけ早く滅亡すべきでさえあるだろう。民主主義国家が最も都合よく支配者に独裁しえる原因も、民衆の混沌さに飽くまで均質化を敷く政策自体に含まれる。野に偉賢なき国家は官僚支配の腐敗を自ら吐露している様なもの。社会の絶対的に含む矛盾を徐々にないしは一度に革命するのは常に、社会の内外から興る新しい勢力でなければならない。大衆支配は自己矛盾。自らの立法を行いうる裁判官においては事実上、不正は存在しないのだ。
 あらゆる現象が大衆民主主義とglobal商業への、即ち覇権への均質化抑圧となって現れる時代においては、ただ周りと違うということ、周りに合わせないということそのものが偉大な社会貢献であると考えられるだろう。仮に100人中99人の意見が比較的正しくとも、この中に一人たりとも和を破り反例を敢然と示す勇気がないというのは、恐るべき退廃と言われ得る。なぜならこの様な反例さえなければ意見そのものが批判的に再検討はされず狂信に落ち込み続けるのが当然。あらゆる宗教団体が哲学者に場を譲らねばならないのは自由な討議の可能性において。宗教者を自任する者こそ全てを疑う哲学者の身を案じるべきで、同時に少なくとも信じるに足る宗教箇条を炙りだす為にすら彼らの実存が有益であることを併せ観るに若くはない。
 現代においては不和自体が勇気の証拠だと考えねばならない。和を以て只卑しいと見なす者は民族の宝玉にも比類しうるだろう。その正否は常に多数決が徐々に批判検討するのであり、寧ろ当面は憂うべき問題ではない。哲学に結論が出た試しはないし今後ともない。それが見識の批判修正という慎み深い意味を有する哲学者の職分なるからには。