哲学教育ということは原理として不可能であり、できるのは教師の道徳レベルを生徒に批判対象として示すことだけである。つまり、かれの総合知識から結論できる義務を当たり前の行動規範として時に及び説明し、或いはその社会的実践としてかれが習慣づけてきた倫理的中庸の程合いを実例として示すこと。これらは先生の姿として生徒の記憶に焼き付けられ、正反両面から後生の批判対象となる。そして責めてもあらゆる教師がみずから目的とする人間を以て理想的神格に代えねばならない限り、この教師の哲学は屡々、生徒より劣る場合も出てくるだろう。この場合、寧ろ生徒から啓発されるのはつねに教師の側なはずである。教師に圧制を認めるのは如何なる意味に於いても害悪である、ということが哲学教育の不可能さの定義と言って良い。なぜならこれらは道徳的退歩を暗黙に権能へと認めることだからだ。
従って最良の道徳教育は、自らを含むどの人格に対しても忌憚なく批評の慣習をつけさせることだ。我々に於いてはこの為に、機会を捉えた反省作文をあまねく授業に取り入れるだけで良い。議論は詭弁術にも陥る隙をも与えるので、この公開された作文法廷の学級会的批判検討という形で、必ずや委員の民主的な議会に任せ過程を全面的に透明にしながら、この全体組織が行政からの圧制を防止するのだが、脱構築的にのみ図るべきだろう。こうして行った立法と司法の分離におけるありうべからざる判定的過ちですら、この裁判が少なくともある期間を置いて繰り返しされる類のものでない限り必ず判定には多少あれ過ちが入り込むが、道徳的心意の作文という証拠さえ記録されていれば、例えばジーザスやソクラテスが後世からそう仰がれた如く、道徳的退廃にある大衆をのちに偉大な良識の実例により救いえる。
哲学とは内省するものであって、教えることはできない。寧ろ後生から教えられることの方が余程多いに違いない。長幼の序は義務心の養成を目的とした道徳哲学に於いては、原理的に成立しないのである。
往々にして、世間擦れした大人には社交術における折中の必要から倫理的堕落が知らずしらずのうち忍び込むものであって、年少者のまじりけない純粋な道徳的心情から倣うべき姿勢がつねにあると断定できる。社会文化は後世の為に築かれるのであり、現世はつねづね仮設の課程に過ぎない。ある時代の規律となる道徳律はこの風紀の最高の規範であり、なおも根本として知識を増強した後進の活眼には場を譲るものである。