人類の走破した方向が何を目指すかは我々の後生に託せばよい、というのも進化論の概観に若し大幅な修繕が必要なければ、我々は審美的に優生選択される数々の習性を地球適応の動物実験として日々試みる丈だから。ここには恐竜よりも繊細な、単に自然の産み出す諸形相がentropyに則り可能態に彩りを魅せる丈。
完成された形相は望むべくもないとして、現実態は神学的に有象無象の多様性を添う。これらの間には熱量系の、その中には更に化学式と生態種の違いとして捉えるべき様々な形相の別がある。生物は物とは呼ぶものの、その本性は自律神経のありか。彼らはより低いentropyを食べてより高いentropyを排出するような質量型を偶然、生じさせた。生存とはこの様な現実態の合目的なアイデア。
生物の体系へは彼らに独自の形相社会という、多彩の種類が分け与えられている。我々は数々の生物集団が土地へと、従って環境へと適応する過程を科学することでそこに秘められた脱平衡力学が単なる偶有的変化とも言えず、寧ろ積極的にentropy増大則の地理形相な事実を知る。
では人類はと云えば、此が生物学の分野に捉えるべき対象として自然科学的な構造を伴うのは疑いなく、直ちに神学的意図を導き出すのが困難としてあれ、取り敢えずは地球に近く生じた摩擦現象の驚くべき感性を通してそれが必然的な原理、物質交換の生態的秩序を伴う営為であることを益々認識する様子だろう。これらの何れが生き残り他が淘汰されるかは余り重要な研究課題ではない、何故なら道徳的淘汰圧は彼らを合理遷移させるに十分。少なくとも人間社会には非人間的な一切、即ち非道徳的な仕業は悉皆、消え去ると地球型生物学の結果は予言しうる。この研究の進む間にのみ、我々には絶えざる状況批判としての社会学説つまりphilosophicalな考察が必要な丈。そしてそれらの代表変遷史はよく、人間社会の文化的な多声に添える貴重な研究材料を提供するであろう。我々は哲学の終りに文化史略の筆を置くだろう。その現在進行形としての文学は本来の読み物として、読まれるのを待つ聖書の再創造に省略を許さないから。