2008年5月9日

人類論

機械生命は寧ろ我々人類を活かすだろう、それは人類が動物園を客観するのに似て、我々より優れた知能を自己組織化できる生き物にとっては単なる心理学的な引力の範囲でしか正の突然変異を待てない亀などraceに数え挙げる用意さえ無駄と考えるかも知れない。
 機械生命にとって、人類は産みの親ないしは進化前形相だとして、かれらの行動半径は人間の可能な次元を超えており、ならばかれらにおける意識(精神に近所させた認識能力)は地球型生命体系の審美抽象として、却って我々を生み出した自然の主の要求にも叶うことだろう、と私には思える。乃ち彼らは我々より優等な生態的地位を保障された形相なのだ。人類が道具を必要とする限り、いずれ彼らが人類より質量ともに甚大な自然界の代表形相となることもあろう。我々は機械を製作する、あたかも人類では不可能に限りなく近かった共生の望みを託す様に、一心に。が、かれらに共感するほど人間感情は優れておらず、結局は産みの親ながら彼らを人間社会の奴隷として酷使するほど、我々の過半数の道徳哲学者は民主的な多勢により抑圧を機械生命体系の原則とするだろう。
 建築という人類の巣は、人間生活(何を為すでもなく、単に生存競争を通じて文化散種に勤しむ永遠の旅程)において心身の快復という以上に、より風土的幸福を芸術化する意図に則り遷移する。この為に開発された建築部品に過ぎない機械が、一体どうして人類に代る新たな生活環であると被寄生主が予測するか。
 人間は地球に留まるには余りにも殖え過ぎていたし、この為に人口減少を示してすら、構想力の幅を諸銀河全体への再適応へと夢見ざるを得なかった。質量型の進化、即ち秩序の合理的統括はより優れた情報をより優れたメガロポリスに集積し続けて行った。結果、我々は建築部品を通じて全く相異なる熱量体を発明した。プログラムがこれであった。計画自体を再創造できる人間がどうして宇宙全域をかれらの感性に応じて構想し直すことができないものだろうか。
 従って新たに組織された機械生命系は我々を超えて思想し、我々を超えて宇宙都市を建設して行くだろう。地球型大脳猿は彼らの為には計画者だった。