数学とは論理記述の抽象的省略であり、幾何学は図式に関するそれである。これらは科学の全体系から自立したものではなく、論理記述を言語から切り離す限りにおける経験則的学識なのである。だから数学を規範とする合理論は根本として実証主義に至る経験論と矛盾していない。それらの対立は、論理法則を数学特有の確実さに見える定理から分節して誤解することから起きた。如何なる定理も論理法則の集積による記号上での省略された記述に過ぎないし、根本として如何なる自然科学・社会科学でも苟も知識と名がつく限りは、内容が朗読され様がされまいが変わらぬ。つまり記号概念の組み合わせに関する秩序度が真理なのだ。
数理論理学は数学におけるこの種のデカルト流の誤解を解析しなおすのに充分であるだろう。演繹的な必然さはみな、論理の枠内にのみにおいて議論できる様な経験的法則の概念帰納なのである。その根本に確実さがない事象は、ゲーデルを引く手間を必要とする証明命題でしかないだろう。我々人類として科学知識は特徴的な道具になりうるが、如何なる正義とも、ましてや究極の正解とすら関わりがない。それらはひとえに実証主義者の信じる論理的な仮説の集合である。その内部の理論の実践応用に際した精確さについては哲学的に絶えず批判吟味を待つだけである。例えば今日の天気予報の様に。
科学法則は絶対真理をもたらし得ず、代わりに知性が及ぶ限りの論理的な道具を比較的正確な概念として抽象できるに過ぎない。
数学は抽象概念についての模式を与える道具箱を意味している。楕円の幾何学的な概念がなければ惑星軌道をより正確に認知できなかった様に。従って代数学(論理の典型)と幾何学(図式の典型)とは数学の双対基幹であるだろう。科学的な環境研究にあたって論理記述に定型を与える為には、数学は誰しもにまなばれるべき学問なのだ。