2008年5月4日

信仰

救済は常に信じることができる理想だ。

宗教は救いを求める人間に共同体をもたらす。

そしてこの種の共同体において、救済を信じる者だけに必ず与えられる「安心」という恩寵がある。
だから、常に人間の安心の為には誰しも宗教が必要なのだ。

信仰同士がしばし利害を対立させるとしても、人間とは不安なままで生きるのにはあまりにも悲惨である。
我々はそれぞれの宗教が単に互いを滅ぼしあう定めなのではなく、互いの違いを縁起してのみ成り立つということを自覚すべきだろう。
それらの教えに常に誤解があるのは、単に説き明された言葉の違い、現れ出た預言者の暮らしている時代の違いに過ぎなかった。

結局、信仰とは一つしかない。つまり「信じる」ことである。この為に前提とされるある程度の考え方を、我々は様々な方式として区分けしている。
 だが、「信じる」為には元来、言葉しか要らない筈なのだ。我々はこれらの違いにより、誤解の幅を日々増大させる。

我々の宗教戦争を救済に導く唯一の方法は、「信じる」為に話し合いを辛抱強く続ける道である。
飽くまで信じる対話の場を設け、ここから無益な暴力を次第に排除して行く事でやがては各々の考え方の違い、すなわち習俗文化の違いが互いに解き明かされて来る。
この暁においてこそ、言語を一つにまとめずに互いを奉仕のために信仰するべき立場、いわゆる同情の立場が自覚されて来る。

最も有力な仲介者として我々は「翻訳者」を挙げうる。彼らにおいて考え方の違いは、信仰の次元にまで高める事もできるのだから。
良心的な翻訳者が文化仲介に有能であればあるほど、かれらはまことに信仰の為のstabilizerである。