言葉と対象の間にある隔たりは理論悟性と実践理性の間にある距たりに類比できる。それらの差は「もの」と「こと」に違いがあると認識する為に役立つ誤差。
我々はもの、つまり対象と、こと、つまり現象とを縁起的に理解して来た。ものがなければことはなく、ことがなければものもない。とは言え、これらの違いはあまりに看過されすぎて来たらしい。大衆はよく理解悟性の限界と実践理性のそれを甚しく誤解しているし、結果、ものごとに境を見出すのが困難となる。従って認識は混濁し、真偽と善悪に違いを感知せず、裁判が真偽そのものではないにも関わらず、死刑を刑事事件のために用いて反省の色もない。
我々は例えば商売の正当性についてすら、善悪を充分に知らない。なぜ物品交換の搾取権力だけが法律的に保護されねばならぬかについてすらまともな論証は持たないままで、真偽をぼかす実践に興ずる。ここから無数の悲惨が生じても、デリダのように負債感情の省略といったアリバイの糊塗で社会型寄生主を罪の領域から逃れさせようとすることさえ。一体、利潤の目的追求が人類の理性を麻痺させる悪徳だと知らない者が植民地獲得戦争をするだろうか。
単に言葉、即ち感性を先天的に定める為の構想力が導く道具がものとは違う有り様なのを問わないままで、我々はことの学問としての形而上学或いは現象学を始められはしないだろう。言語学野と現象学野は厳密に区分を明らかにしなければならない。前者は言語の悟性的概念のgeopoliticalな分布を、後者は話されるべきこととしての思想体系を飽くまで哲学的に探究すべきもの。