2008年5月22日

文化論

文化とは各々の目指す文明に向かう、様々な行程の別である。
これらの間の違いは風土の与える人間性への影響の違いに基づくのであり、地球のあらゆる場所が地球という生態秩序のかけがえない部分である様に、優劣で語り得ない多種多様な趣を持っている。

 ある登山の頂上を目指すrouteは千差万別であるけれど、楽な路を歩んだ者の登頂の感激は少なからず、苦労に努力を重ねた民族とは相異なるのも自然である。「感情」が文明の為には実に合目的性を飽くまで保つのはこの為だろう。だから例え途中で何らかの要因により途絶えてしまった血統についても、その抱いていた感情は「文化」の末節として必ずや他のgroupに益する。挫折した一団の為にこそ登らねばならぬ頂きというものはある。相助ける場面も互いに牽制し競争しあう場面もあるだろう。しかし概ね彼らは文明という見えない頂上を様々な角度から試行錯誤して目指しつつある。

 文化は常に最大限の価値を持つ。その比較相対性は各々の特徴に存する長所を徐々に理解し合うための、最低限の役にしか立たない。バベルの崩壊は従ってすら正しかったのだ。我々は地に広がって互いに益する独特の生態を表現しなければならぬ。例えある好敵手との関係についても、それがいずれ必ずや友情へ、赦しへの原型とならざるを得ない限り、自然は彼らの個性をまったき表現へと導き出してくれる。どのような悪も亡ぼされない事はなく、その過程に生じるあらゆる事件はみな、善を一層良くするためには美しい秩序を意味する。ライプニッツが考えた様に予定調和とは宇宙の本性に秘められた真実である。