2010年4月7日

精神の流れ

理念だけを相手取る上では最高位の建築家は神の次位として、その理学に当たる形而上学の徒とされた。しかし行動的実践に携わる間は別の民意から使用されるのを疑えないので、当時の総合経済を極相的に仕切る首位となる行政家の考える義理は、考えとしてかなり前代の幾分か或いは随分と旧くなった形而上学徒からの引用となるだろう。ここに最大多数をひきつける演技力についての建前という思想がある。いいかえれば、神の真の次官がこの世の表舞台に顕れないのは彼が畏さに於いて当時の民意をはるか超越している限り当然なのである。このため、きわめて高い精神量あるいはすぐれた知能は、もしそれが示されれば人々へは神格紛らわしく覚われる。だが時代は漸進的啓蒙や啓発によりこの段階を吸収し、良識からやがては常識、それか最低限の知識と覚えるだろう。