2010年4月25日

至善論

人類が相互競争し易い時代は、自然にみれば覇種への貢献のみ。そして天敵なさは覇種のみを多数派と化す。特に驚くべき問答でもなく人類の覇権は永遠には幻。地球生態系の永遠さが保証できない限りで。ある時節をへて人類は人種のるつぼに比べた商業の共有空間のみへ競争を限定していくだろう。これは彼らが共生したい限りは止むをえない。故商業のみの覇権では、一般の社会原則で商業の勝者は政権のそれとの一致が好まれないので、凡そ覇種は実現しない。商業界自体は多民族と共生が求められる間中止まないが、この遺伝な浮動帯は程度あれ原則の忌みや経過される中継地点での浮世の賑わいとなる。つまり人類内淘汰がある期間、外来種からの敵意なさの為続けばその中では決定的な覇種が永続を前提とした政権下で確立され易い。もし覇種が他の人類の祖先と違うなら、以上の推論から、恐らく理性の程度だろう。これは具体で実践に基づく政治力でしか覇権は現実でないから。但し、この場では系外接触による異類間の活路の可能性を除いているので地球が高度な孤立をある期間全うするならだが。これらで分るのは結局全てに勝って道徳に従うのが最善らしい事。乃ち「至善に止どまる」のが人類内境遇での不動の一手で、しかもそれは蓄え得る。かくの理想は至善の蓄え或いは功徳と云える。道徳は最高度の理性からの抽出だから、それを何らかの上位概念から批判できない限り、総合理念は最低限度規範として順次実現されねばならない。もし人類外との折衝で地球の文明を破滅や奪還後洗浄する粛清組が生まれても、我々はこれらの生態を地球風土に属する限りは否定できる。なぜなら地球風の生態系では縁起則による生まれ変わりが当然視されるので、全く跡形もない地球の破壊によってすら何らかの文化素な、その理念のかけら以上は残る。土くれですら生存規律にとっては何も残されないか、何の意味も残されないよりは増しであり大概では、理念そのものがもつ生態内の意義だけは持ち越される。消化後の肉体で如何に食物が血肉となるかと似て思想や理念も、同じく覇種にとっての位置づけとかわりなくより高次な生態へと吸収される。