2010年4月13日

関西悪徳否定論

倭人社会の構図を観察して理解できるのは、彼らがおもに都市圏で広くもつ風俗業界と呼ばれる接客業種は、それが慰安専門の経済界をつくる中で生殖能力の保存とその維持の省力化に使われている事。より解り易くいうと、倭人は「性的本能の経済」をおそらく伝統的に商業化しており、それは彼らの理性では非難されるべき悪徳とは捉えられていないという事情。こういう慰安の商売は人類の都市圏には少なからずゼロではない程には見つけられるが、倭人の特徴はそれがおおっぴらに営まれることだ。彼らには普通の人類のもつ理性が欠落していると思われるのも、この羞恥心のなさに求まる。我々は倭人の中にいる女子学生が目を覆うばかりの淫らな姿で日常を過ごしているのを客観する。彼女らは上述の見苦しい風俗業へ参加する前座としてその畜群まがいの発情期の初期を過ごすのである。言うまでもないが、そういう業態が全く規制なしに繁栄させられる限りこれは倭人社会では適応的な行いなのだ。そしてこの明らかに性的倒錯のなせる業は、彼らの自然的かつ必然の人口減退に、悪徳とみなせる放埓の因果で一役も二役も買っている。

 倭人がこの商売できわめて円滑に性的放逸をあからさまに遊び回るのは、関西という地域圏の周縁では普段に鑑賞できる。誰もそれを咎めないばかりか、大体の人によって共感や奨励、つまり感染させられる。テレビドラマでいう水戸黄門の中でも、関西人が監督した途端そこにありえない芸者遊びのミームが感染させられる。広島という中小都市を真夜中に独り歩きしてみれば、その種の売春婦が数多くあなたを誘惑するかもしれない。勿論、そこは原子爆弾が落とされた都市だ。結局、これらの血統は以前と変わらぬ劣悪な理性のために、如何なる天罰によっても、既に習性化している頽廃の界隈ではその血統の業が淘汰しきれないのだろう。
 この種の倭人が向いている商売は娼婦のみであるから、その扱いには最低限度か場合によればそれ以下の敬意しか何等無用である。彼らは理性の勝る人間の足を引っ張り、その尊厳を手段を選ばずけがすばかりか自らの頽廃を合理化するため、反教育的な作物をあちこちであふれさせる。この行為を制止するには彼らの血統をこの元来清浄なる地表から一匹残らず消し尽くすべきが疑えない。私は関西人が己の頽廃した性格を合理化するために関東へ侵入し、そこで元々営まれてきた素朴な賛歌を淫猥なものへと堕すのを見た。更にはあらゆる卑劣な手立てでそこの風紀を悪い方へ、前よりよくない方へと誘うべく元々確立されていた地霊の尊厳を酷く貶めた。江戸城で行われてきた関西出の王の人格をまざまざと見よ。山ほどあふれさせた一大人身売買地から得た税収を元締めているのは誰か。道端で喧嘩ながら警官に暴言を吐き、日常に漫才しながら彼らは金儲けを目的と信じ、そこで得た大金を頽廃した風俗業界の階層へ分け与えるものが倭人の皇帝だ。

 もしこの行く末あしき行いが他の土地でも防がれるべきならば、関西人の血筋とその生計が、発見された親の段階で一切全滅させられるべきなのは全く疑問視できない。彼らの臭いがする場合には、敢えて必要最小しか取引しない方が多分によい。この種の最終始末はいわゆる越前越後屋、悪徳商人の仕事であり、それは我々にとって望ましい滞留でもない。既に彼らが大幅に入り込んでしまった土地では、関西風の悪徳否定が完全に有益である。さもなくば、上述の例と同じくその土地は倭人が何より好む汚れきった悪風俗業であっという間に占められ、彼らに特有の発音と行動原理がどこでも、その底抜けに醜い行いを合理化し続けるであろう。近く、主に彼らの力で復興した広島はその反面教育にも足る一例と言えよう。